2020年6月1日

6月1日・月曜日・雨。地下鉄の冷房に当たったか、やや寒い。時に思う。これはサービスなのか、ていのいい拷問なのか、と。

 

言うまでもなく、介護一般がそうであるが、殊に訪問介護業務ほど「ソーシャルディスタンス」と相容れない仕事は無かろう。介護とは、まさに「利用者の家で風呂や食事の介助、おむつの交換など」に携わることであり、「人との間隔を約2メートル」空けては仕事にならない。また、高熱のある利用者の要請に、事業者側はさすがに「病院で診断を受け(てもらわ―筆者注)なければスタッフは出せない」と訴えるが、「担当のケアマネジャーは「利用者の生活があるので行って下さい」と譲らない」と言ったケースもある。

そうした仕事に直接携わる職員の実感は、わが身に置き換えた場合、何とも耐え難い苦しみである。「利用者の家族に陽性者がいても私たちは知るすべがない。他人の家でサービスをする怖さが理解されていない。スタッフはみんな団結して取り組んでいるが、燃え尽きないか心配だ」。

元々、介護職は人手不足の上、離職者の多い職種と言われるが、そんな中での一人の脱落は、仲間に大変な重圧を負わせる事は誰でも知っている。であれば、一同「団結」して励まし合い職務に当たる他ないが、そうした精神的・肉体的な緊張がいつまでも維持されるわけがなく、ここでも物流業界と同様の困難・苦しみがある、と言って置きたい。

この度のコロナ禍が我々に突きつけた問題は(それは現在の社会制度と人間の心情の在り様をあぶり出した)、他にも多々あり、中でも現在の医療現場が直面する惨状は、上記にも増したそれ特有の悲惨さであり、是非にも見ておくべきであるが、これはいずれ報告することにして、今は棚上げにしておく。ここでは、先に見たスーパー、コンビニ、物流、介護といった社会を支える業界の従事者(「エッセンシャルワーカー」)について纏めておきたい。

すでに見たように、彼らは(米国の黒人も含めて)経済的弱者に留め置かれており(その一つに正規・非正規という雇用形態の違い、そこから生ずる身分的・経済的な格差等の問題がある)、結局は仕事の現場がどうあれ、しかもそこには様々な危険のある事を知悉し、それゆえ覚悟しながら、仕事に向かわざるを得ない人々である。今日・明日を生きるために、他の選択肢を取り得ない人々である。使用者側の意志は、そうした彼らの弱点を掴み切り、しばしば無情で、利用しつくすのは、上に見た。だから資本主義は悪だ、と言って済ませられたのは3、40年ほど前の話だ。現在みるいわゆる社会主義国家の、より以上の惨状、暴力性、冷酷さはいまや誰でも知るところである。

事は、社会・経済体制の是非の問題では全くない。我々の社会体制のままでも、関連法規の整備や社会保障等の改正によって、十分現在の問題に対応することができる。というよりも、そうした政策や対策を積み上げていく事でしか、この窮状は脱しえないであろう。特に格差問題については、大きくは現行の所得税制の改正を挙げておきたい。そして喫緊の課題として、「正社員と非正社員の不合理な差別の解消をめざす「同一労働同一賃金」の関連法」の完全実施に加え、「最低限の生活を営める資金を市民に直接給付する仕組みの拡充」(近藤絢子・東大社研研究所教授)の整備が考えられる。要するに、事態のこれ以上の放置は、最後は社会を支える基盤の崩落を来たすことになろう(以下次回)。


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