2019年12月17日

12月17日・火曜日。雨時々曇り。年内のわがスケジュールによれば、本日をもって、今年の「手紙」は休刊とさせて頂きます。読者諸氏には、ここに改めて本年のご愛読と励ましに感謝いたすと共に、来年についても宜しくお願い申し上げます。また、新年が皆様方にとり幸多き年でありますよう、心よりお祈りいたします。

 

少々時代を振り返ると、特に首都圏に限って言えば、その建設ラッシュが本格化するのは、恐らく前回の東京オリンピック開催前後からであろう。開催準備のため、各種の建造物をはじめ首都高速(現在337㎞)や新幹線の建設が、日に夜を継いで、突貫工事で進められた状況は、この度のNHK番組「いだてん」でも活写され、筆者も大学入学当時の東京を懐かしく思い出したことである。

もちろん建設ブームはこれで終わらない。例えば、昭和36年の下水道の23区普及率は22%に留まり、これが7割に達して隅田川の花火大会が再開されるのは、やっと昭和53年の事である。高層ビル建設の夜明けを開いたのは霞が関ビルであったが、その起工式は昭和40年に挙行され(竣工、同43年)、その流れは現在に続く。昭和37年に着手された東名高速道路の全線開通は、7年後の44年であった。これらに加えて都心の地下鉄の急速な建設と延伸を見れば(現在の営業キロ数、営団195㎞・都営109㎞)、オリンピック以降の都心の建設がいかに巨大であったかが想像されよう。なお、こうしたリストは幾らでも伸ばせる事に思いを致されたい。

さて、元に戻ろう。上で見てきた巨大建設群に不可欠な「骨材」の主成分である膨大な砂は、佐久間氏によれば、昭和40年頃では、その大半が「千葉県君津市を中心とする一帯」から供給された。「この地方では、山砂の採掘によって丘陵が次々と姿を消した。国定公園である標高三五二メートルの鹿野山(かのうさん)の場合は、いたる所に高さ一〇〇メートル前後の絶壁が出現し、山容が無惨に変わりつつある。

「問題は、その山砂の輸送の仕方であった。馬車が通っていた狭い砂利道にダンプカーが走り出したころ、住民は物珍しさも手伝って見守っていたが、いつの間にか交通量は一日四〇〇〇台にもなっていた。

「沿道の所々には、民家や商店が密集していた。ダンプカーが巻き上げる砂ほこりで、民家もダンプカーも見えなくなり、日中でもダンプカーはライトをつけ、住民は戸を閉めて電灯をともす日々が六年も続いた。道路はようやく舗装されたが、今度は、ダンプカーの荷台からこぼれ落ち、そのタイヤで細かく磨り潰された山砂の粉じん(塵)や、排気ガスによる黒い粉じんが、激しい風圧をともなって沿道を覆うという状態が、今日にいたるまで続いている(2011年現在、引用者注)。アルミサッシ戸が役に立たず、タンスの中まで汚れる家もある。

「沿道住民のじん肺問題が発表された翌年の、昭和五七年度における千葉県による測定では、ダンプカーによる粉じんの量は、月当たり最高が一五九トン、年平均でも九五トンである。工場地帯の煤煙が多い所でも、月当り一〇トン程度であるから、君津市のダンプ粉じんいかにすさまじいものであるかがわかろう。これに一〇〇ホンを越す騒音、振動、交通事故死や泥はねが加わって、沿道住民の平穏な生活は長い間破壊されたままである」(前掲書ⅱ~ⅲ頁)。そして、ダンプ公害の「張本人であるダンプカー運転手」は、ダンプカー購入時の巨額な借金と過酷な労働による健康被害に苦しむと言う。

そこで著者は言う。「開発という魔力によって犠牲にされた地域住民の怒りと慟哭に耳を傾けてみると、開発と機械文明の氾濫に身をまかせているわれわれのすべてが、その生き方を問われているような気がしてならない」(同書ⅳ頁)。こうして、発展する都市の背後で進行する地方の疲弊が浮き上がるのである(以下次回。この項終わり)。


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