2018年12月7,13日

12月7日・金曜日。曇り。前回を読み直し、我が思考の停滞、言うべき事柄を言い得ていないもどかしさを感ずる。

12月13日・木曜日。曇り。同居の孫娘(小2)、登校拒否に陥り、わが家一同の懊悩は限りなし。マイリマシタ!

 

さて、本題に戻ろう。以下では山出 保『まちづくり都市 金沢』(岩波新書 2018)、佐々木雅幸『創造都市への挑戦』(岩波現代文庫 2018)が大いに参考になる。因みに、山出氏は元金沢市長、佐々木氏は元金沢大学教授であり、ご両人とも金沢を良く知り、愛すること人後に落ちないが、金沢を素材にした諸説を通じて個性的な町とはどのような事か、またそれはドウ造られ、維持されるかについて、多くを教えられるからである。

殊に山出氏の「歴史の多層性」と「文化の多様性」の指摘は、ここでの論題に深く関わる、と言うよりもそれに引かれて、筆者はこの問題に想い至ったと言うべきであろう。その主張をごく大雑把に要約すれば、ほぼこんな事になろうか(興味のある読者は、是非本書を一読されたい)。

金沢が位置する自然環境をベースに、そこに住まう人々が今日にいたるまで積み重ねてきた営みの全てが歴史として刻み込まれている。その始まりは利家の能登から尾山(後の金沢)への入植とされ、1583年のことであった。爾来430年の間、戦火を見ないという、世界史にも稀な平和都市で在り続けている(それに並ぶ都市はチューリッヒのみと言う)。だからであろう、例えば金沢城は「石垣の博物館」と言われるように、各時代になされた改築や修復時の石組みの特徴が今に留められているそうだ。

だが、ここで言いたいことは、こうした石垣がただ残っているということではない。各時代に育まれた生活が多層的な層をなして、この石垣のように、現在にまで伝えられているということである。お蔭で、当市は「他の都市に類例をみないほど多種多様」な顔を持つ文化都市になりえた。金沢の衣食住に見られる生活様式の水準の高さはその結果であろう。つまり、武家時代に築かれた武士としての品格や仕来りがある一方、それ以前の一向信徒によって開かれた自治集落の記憶、さらに当初は武士を顧客とした工芸品は物造りへの拘りと高度な技術を生み、武士たちの貧窮時を助けた商人たちの活動は、武士的な品や矜持を職人や商人層に受け継いだ。かくて、金沢らしい文化や生活空間が育まれていったと言う(以下次回)。


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