2017年12月8日

12月8日・金曜日。曇り。過日、ラグビー早明戦を秩父宮にて観戦す。昨年の雪辱を果たす快勝であった。かつて、明大ラグビー部の部長を三年間務めた身としては、久しぶりの快哉を叫ぶ。絵画館前の銀杏の黄葉、盛りを過ぎるも見事であった。

本書の冒頭は実に魅力的だ。「人は泣きながら生まれてくる。その泣き声は言語のめばえを知らせるものだ。ドイツの乳児はドイツ語の抑揚で泣く。フランスの乳児はフランス語の抑揚で泣く。これはどうやら胎内で獲得するもののようなのだ。生後ほぼ一年以内に、子供は母語の音声システムを身につけるようになる。そしてさらに何年かが過ぎると、そばにいる人と会話をしている。どんな人間言語でも獲得するという、ヒトという種が持つこのすばらしい能力―“言語機能―は、ずっと以前から重大な生物学的問題を投げかけている。たとえば、言語の本質とは何か。どのような働きを持つのか。どのように進化したのか」。

人間はマッサラな、白紙のような状態で生まれ(ロック「タブラ・ラサ」)、その後の経験から多様な観念を獲得し、ひいては人格形成に至るという主張があるが、事はそれほど単純なものではなく、乳児はすでに多くのモノを背負って誕生するらしい。とすれば、妊婦の置かれた状態は乳児にとってすこぶる重大であろうが、これは本書とは関係のない別の問題である。本書は上で挙げられた主題の「三つ目の問題、つまり言語の進化」をとくに生物学的進化の視点から扱おうとするのである。

まず、断っておかねばならない。以下は我が勝手な要約で、本書の正確・忠実なそれではなく(そんなことは全く不可能だ)、興味の向きには是非本書をご一読あれ、と申し上げておく。マッ、これは今に始まった事ではない、とは諸氏の既に周知のところであるから、当方としては安心しているのだが…。

人間以外にも、かなり精度の高い言語的な伝達能力を持つ動物は、蟻や蜂の例を挙げるまでも無く幾らでもいる。ある種の類人猿は―チンパンジー―人間に類する言語能力さえあると考えられてもいるようだが、にも拘らず人間の場合そうした事例から質的・量的に隔絶したマッタク別個の言語体系を確立しており、そのような言語がどのようにして獲得されたのか、その構造がどうあり、よって言語は、人間にとっていかなる意味を持つのかが、次第に明らかにされるのである(以下次回)。


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