2017年11月7日

11月7日・火曜日。本日立冬。鶴巻南公園のユリノキの大樹、見事に黄葉す。

カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞に触発されて、この半月ほどをかけ、遅まきながら五点の作品を読んだ(全冊ハヤカワ文庫版による)。前から氏の令名と主題には惹かれるものがあり、いつかはと思う内に日延べとなっていたのである。

初の長編小説と言われる『遠い山なみの光』は私には難解で、池澤夏樹氏の解説により何とか追いついたような気がする、そんな読書感であった。当然面白みもない。『日の名残り』には大いに惹かれた。ヒトラーに引き回されるヨーロッパ列強の外交交渉に加えて、その裏舞台となる政府高官の私邸で展開される極秘の会合、会食の在り様が執事の目線から丹念に描かれ、恐らく表舞台には現れない高度に政治的な意思決定の過程の一端を教えられる。その一点だけでも私にとって興味深い作品である。同時に、往時の英国貴族の広壮な邸宅の運営、主人と執事、そして彼と他の使用人らとの間の厳格な階層関係やそれぞれの職務についても同様である。

このような外交の舞台をしつらえ、微妙な問題を美味な飲食と優雅な雰囲気の内に溶け込まし、事の速やかな成就に心を砕く。これこそが第一級の執事の心組みであろう。であれば、彼は心酔する主人が担う国家的な任務の遂行のために、己を捨て全身全霊をもって仕えねばならない。同じ屋敷に仕える父親が、たとえ死の床にあろうとも、心を煩わせずに仕事を果たす。これぞ、彼の求めて止まぬ執事の「品位」なのである。そして、主人へのそのような奉仕を通して、自身の国家や歴史への貢献を自負し、深い満足を覚えるのである。であれば、彼には、自らの個人的な愉しみや娯楽はありえず、彼に心を寄せる女中頭の思いにも気付かぬまま、早や「名残り」の日々を迎えてしまった。

物語は、主人公である執事による彼女への回想と邂逅を求めての旅路から始まる。つまり、本書のテーマは執事としてこれまで過ごしてきた人生の「記憶」への旅路でもあった。彼がすべてを擲って尽くした主人は、戦争が終わってみれば、ヒットラーの都合のいい手駒でしかない素人外交官にすぎず、ドイツに協力した戦犯にも等しい二流の人物であった。とすれば彼の人生は、彼の思う栄光に満ちた、生きるに値するものでありえたのか。こうして実人生と記憶との軋み、そこに生ずる両者の歪み、いやあの時は「そうではない、こうであった」との記憶の捏造や変容、しかし今更取り返しのつかない、何とも痛恨の痛みが己の生の奥底に蹲る。そうした人生上のシクシクと刺すような記憶の痛みは、特に名残りの日々を迎えるような歳になってみれば、誰もが覚える一事であろう。イシグロはこのような逃れ難い記憶の残酷さを抑制的な語り、淡々とした筆致で突きつけてくるのである(以下次回)。


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