2017年10月16,24日

10月16日・月曜日。雨。本日、12月の気温と言う。

10月24日・火曜日。曇り。少々、体調を崩し、若くはないと、改めて実感する。

以上を纏めれば、こんな事になろうか。下山の轢断死は、まず以て儲け話を潰された集団の恨みと復讐心に発したものであるに違いない。その首謀者は著者には分かっているようだが、ただ客観的資料の物証がないため「×某」氏と記すばかりである。また、それとは別に、そのような計画とそれを実行するまでには、それを容認すると共に積極的に支援する幾つかの入り組んだ支援部隊が存在しなければならなかったはずだ。しかも、事は現役の国鉄総裁の変死である。単なる事件で済むはずはない。対応次第では労使問題を触発し、占領政策の当否が問われ、国際問題にまで発展しかねない危険性さえある。であればそうした支援者の内には、下山の変死がまかり間違って「自殺」ではなく「他殺」とされても、これを事件化しないよう警察を制御しうるほどの組織すら関与していたのかも知れない。学問的には動かし難い他殺説の古畑鑑定に対して、国会の場で公然と自殺説をとなえ、これを捜査方針の根拠にした警察当局の動きはそうした疑念を抱かせるに十分なものがある。

ただ、間違ってはならない。下山の「暗殺」(吉田の言)は、そうした支援団体や組織が相互に一体となり、統一して執行されたということでは、断じてない。当初、本事件はGHQとその下部機関G2の仕業と見られたようだが(松本清張他)、そんな動きのあることは察知しつつも傍観者的であり(その意味で消極的な関与者であろう)、後に事件の関与を極力否定していく。占領政策に累が及ぶからであろう。むしろ米人の関与は日本にも設置されたCIA(国務省直属機関)関係者が疑われており、GHQのG2下にあるキャノン機関等ではなかった。しかも、両機関は「殺し合いをするほど仲が悪かった」と言われてもいる(486頁以下参照)(この辺りの事は複雑で、筆者にはよく分かりません。悪しからず)。ここには、先にも触れたジャパンロビーの陰が見えなくもない。

政府当局は米の動き、GHQの対応に応じてそれを補佐し、極力事件の沈静化を図っていく。実は下山は総裁受諾に際し、佐藤栄作に相談するほどの中であった。佐藤は同じ運輸省の先輩次官であり、彼に次いで自ら政界に出る野心もあったからでもある。彼は受諾を勧める。総裁人事は難しい政治状況の中、GHQの思惑や労使関係も絡み、何人かが拒否する最中、ようやく決着を見た次第であった。

総裁は就任後、日ならずして、国鉄職員の大量解雇を迫られていたことは既に言った。解雇はGHQからの要請でもあり、だからそれは「大量解雇実現内閣」とも言われた吉田内閣の至上命令でもあった(44頁)。解雇者のリストと方針が整う6月末から7月初めにかけ、労組側の反発は強まり、左翼学生は「非合法闘争も辞さない」と息巻くほどに事態は緊迫する。さらに事件の2・3日前の新宿駅前には「下山を殺せ!下山を暁に祈らせろ!」という不気味なポスターまで張られるに至る(46頁以下)。

そうした最中、GHQ所属のCTS(交通管理部門)の担当官シャグノン中佐――彼は日本の国鉄を「マイ・レイルロード(おれの鉄道だ)」と言って憚らぬ、元は「小さな鉄道の課長程度の人物」(53頁)に過ぎないが、当局は彼の言に従わざるを得ない――が、7月3日の深夜、突然首にピストルをぶら下げ、酔いに任せて下山宅を襲った。彼は鉄道当局が人員整理の発表を7月5日にした事が不満で、是非とも「7月3日前」を強要するためにこの挙に及んだのであった。そこで下山が発表を4日に通告すると言うと、「今度はすっかり上機嫌になって帰っていった」(54頁)。たった一日の差で、発砲が上機嫌に激変したのである。しかも5日には下山は轢断死体となったのである。これを全くの偶然と見るのは、却って不自然である。また、シャグノンごときが知っていたものを、吉田内閣がまるで感知しなかったとも考えにくい。吉田は下山を見殺しにしたと囁かれる理由である。同時に、そうせざるを得なかった政治の冷酷さを、知るべきなのであろうか。

これで下山事件を終えよう。最後に一点だけ付言しておきたい。学問と政治の問題である。これは私のような分野を踏んだ者には避けて通れないからである。ここでの主題は、色々あったが、731部隊についてであった。彼らの研究は戦争遂行のためであり、これを善とし、そこから生ずるあらゆる結果は視野の外にあった。戦後、国のために尽くしたことで、自分達には非は無いと言い張った。これはナチや戦勝国に奉仕した全ての科学者にも言えることである。

確かに戦争下にあっては、そんな言い訳も可能かもしれない。では平沢裁判、下山事件での学問の姿勢はどうであったか。状況証拠の全てが平沢の無罪を科学的に主張し、下山の死体は死後轢断だと言明しているにもかかわらず、科学者はそれを否定し、遂には当局の意のままに結論が導かれてしまった。要するに、戦争下であろうと無かろうと、学問は政治に向かう時、まるで無力である。これはガリレオがローマカソリック教会に屈したとき(或いはギリシャの時代から)、既に決した事であったのかも知れない。科学は常に真理を探究し、いかな権力に対しても客観的・かつ公平に言明すべきである、と言うのは全くその通りであろうが、しかしただそう言われて限りでは単なるお題目に過ぎず、また学問の進化がそのままこの崇高な理念の実現を保証するわけではない。

これは自然科学だけの問題ではない。社会科学もまた同様である。例えば国論を分ける司法の判断は、しばしばどうであったか。無限の経済発展を保証する経済学や原発の経済性やら効率性を主張する言説、あるいは植民地政策に奉仕した文化人類学も同様である。結局、学問研究の成果とその利用は学問が物を言うのではなく、それを駆使する人間、すなわち無限の欲求・嫉妬・怒り(貪瞋痴)に溢れた人間なのである。しかも、そんな人間が政治的な利害の錯綜と混乱の最中にあって、自らの学問的な権威をチラツカセながら、いかにも客観性を装いかつ重々しく、事態はいまやこうなっている、もはやこれ以外の選択肢はあり得ないと迫ってくる時こそ、「今ここで語るのは、真理を欲する学問なのか、それとも学問の衣をまとった権力の走狗なのか」と、一旦立ち止まり、用心できるような心を鍛えたいと思うのである(この項、ホントに終わり)。


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