2017年9月11日

9月11日・月曜日。強い日差しなるも、吹く風は秋。

帝銀事件の翌年、すなわち昭和24年7月5日、国鉄総裁下山定則が国鉄本社に近い日本橋三越本店から忽然と姿を消し、翌日の未明、常磐線の北千住と綾瀬の中間辺りで轢断死体となって発見された。世に言う「下山事件」がこれである。

事件はこれに留まらなかった。むしろ、これに誘発されるようにして、10日後には、三鷹駅構内で無人の電車が暴走し、多数の死傷者をだす「三鷹事件」、翌月の17日には、「松川事件」として知られる東北本線松川駅近辺での列車顛覆事件と連発するのである。特に本事件の場合、現場は丁度カーブ状になっており、その地点のレールから犬釘を抜き、継ぎ目板2枚とボルトも外されていたと言うから、顛覆はどうみても人為的に惹き起こされた事件とみる他はない。政府はこの二つの事件を、国鉄合理化の阻止を目論む、共産勢力の仕業として断罪し、当初、裁判もそうした方向で進んでいくのである。これを見ても、労使双方の関係が如何なるものであったかが、察せられよう。

下山事件はその先駆けとして発生した。一か月前に就任したばかりの新総裁は、GHQの命を受け10万人規模の人員整理というとてつもない難題を背負わされ、折しも失踪事件前日(4日)に彼は30700人の解雇名簿を発表すると共に、その断行を宣言していた。それがいかほどの重圧であったか。ここには、外部からは伺い知れない、総裁の苦衷があったであろう。

だからであろうか、失踪に至る数日前の総裁の挙動は、傍から見ると腑に落ちない、何か錯乱したもののように見えた。轢断死の一報を受けたとき、総裁は自殺に追い込まれるほどの重圧の最中にあったのだろう。こう納得した人が少なくなかったのも無理からぬことであった。そして、警察も自殺説で処理しようとしたのである(以下次回)。


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