2017年8月28日

8月28日・月曜日。晴れ。時に涼風そよぐ(前回の文章、若干だが、決定的な訂正あり)。

平沢関係の本を読んでいくと(と言って、ほんの数冊だが)、妙な気持に捉われる。彼の逮捕から日本堂事件の発覚に至るまでは、何か悪い夢を見ているうちに、犯人に仕立てられた。これは不運な偶然が重なった結果に過ぎず、いずれ事実が判明すれば釈放される。これまで運命に弄ばれた彼の命運は、やがて賽の目が変わってきっと吉となる。その筈であった。しかし「日本堂事件」は、彼を死刑囚へと追いやった。これを契機に国家意思の万力が作動し、どう足掻こうとも彼はこの窮状から逃れ出ることが出来なくなった。最早それは、偶然ではなく、必然となったのである。国家的要請を果たすために、彼は無理無理に罪を背負わされ、その道を歩まざるをえなくなった。こんな思いをもたざるをえない。

ここでは、使用された薬剤に関する証言者の変更についてのみ、一件、挙げておこう。捜査当局は当初から、事件の特殊性、毒物の手慣れた扱いに徴して、旧軍の細菌研究者を疑い、登戸研究所元所員にも捜査は及ぶ(昭和23年4月25・26日の事である)。その一人、杉山圭一は捜査一課小林・小川の両刑事に言う。「青酸カリでは危険でできないから、青酸ニトリールを使ったのが正しいと思われる」。これは同元所員たちの一致した見解である。

そして、後に薬剤の判定について重要な役割を果たした判 繁雄も、当初、同様の語り口であった。引用しておこう。「帝銀事件を思い起こして考えてみるに、青酸カリは即効的なものであって、一回先に薬を飲ませて第二回目を一分後に飲ませて、さらに飲んだ者がウガイに行って倒れた状況は、青酸カリとは思えない。青酸カリはサジ加減によって時間的に経過させて殺すことはできない。私にもしさせれば、青酸ニトリールでやる。青酸ニトリールを飲ませた場合は、青酸は検出できるが他の有機物は検出できない」。この証言は警視庁捜査第一課・甲斐文助係長の『帝銀椎名町支店員毒殺事件・捜査手記』に記録されているが、しかしこれは公文書ではなく、甲斐係長の個人的メモの扱いであった。ここにも平沢の不幸があった。

しかし、判は証人として、翌年の12月19日、長野地裁によばれ、証言を行うのである。裁判長は東京地裁の江里口清隆であり、帝銀担当の高木一検事が立ち会っている。そこでの興味深い証言はこうである(以下次回)。


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