2017年7月24日

7月24日・月曜日。薄曇り。ただし、鍋底で蒸し煮にされているような暑さなり。

それにしても、七三一部隊は何故あれほどの惨い実験をやってのけられたのであろう。彼らのほとんどは軍医か東大、京都をはじめとするトップクラスの医学部出身の医者であり、戦後はそれぞれの出身大学の重鎮として学部長等を歴任し、わが国医学界の指導的な地位につく人びとも少なくはなかったという。しかも彼らの学問的な成果は、密かに持ち帰った生体実験の資料・データに負うところも大いにあったようである(常石敬一前掲書)。

とすれば、彼らには生命に対する畏怖の念は一片もなく、医者になる資格はまるでなかった。彼らの行状は厳しく糾弾され、その責任を問うのは当然であったが、同時にその状況に身を置けば誰でもそうせざるを得ないような戦争の狂気、恐ろしさをも思うべきであるかも知れない。

しかし、彼らとて、最初から「鬼畜」であった分けではない。初めての実験に立ち会い、一連の処置を命じられた時には身は震え、おぞ気を覚えた。回数を重ねるうちに麻痺したとの報告もある。この麻痺と戦争の大義が人間として守るべき禁忌から彼らを解放し、恐るべき深淵へと追いやったのであろう。その背後には、軍部や日本人の抱く中国人に対する徹底した蔑視感情、それに基づく彼らへの優越感、つまり何をしても彼らは我々日本人の敵ではないとする夜郎自大な尊大さがあった。だから部隊は犠牲者たちを人間扱いする必要はなかった。彼らは単なる実験材料であり、そこでは名前を失い、番号化され、一本一本の「丸太」となった。こうして部隊や軍部の精神的荒廃は留まるところを知らなかった。

次の証言はその事を間接的に証明するであろう。七三一部隊と共に今一つの極秘の研究所が1937(昭和12)年、現在は明治大学生田キャンパスの地に登戸研究所が創設されている(その前史はここでは省略する。なお本研究所の全貌が明るみになるのは、平成になってからの事で、それゆえか、私の所有する日本国語大辞典、広辞苑他にもいまだこれは収載されていない)。ここでも細菌研究はあったが、他に生物化学兵器などの特殊破壊兵器の研究がなされ、その中に風船爆弾の開発があった。これはかなりの数で製作され、実際にアメリカ本土に向けて飛ばされた。この風船には当初、毒性化合物や細菌爆弾を搭載する案が練られ、アメリカ軍もそれを恐れたようである。西部防衛軍W・H・ウィルバーは言う。風船爆弾が「1945年の3月のように、平均一日100個の割合で放流され続け、少数の大型爆弾の代わりに数百個の小型焼夷弾を付けるか、人間や牛馬に病気をまき散らす細菌、農作物や植物を枯らす薬剤がしかけられていたならば、全米は恐るべき惨禍に見舞われたに違いない」(木下建蔵『日本の謀略機関 陸軍登戸研究所』119頁・文芸社・2016)。日本軍はここで言われるように、あえて米本土の被害の拡大を抑制した対応を取ったが、それは米からの徹底的かつ広範な報復を恐れたからである。

中国本土ではそんな事を危惧する必要は全くなく、だから軍はやりたい放題、まさに傍若無人にふるまえたわけであった。しかし、今や潮目は変わったのである(以下次回)。


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