2017年7月12,18日

7月12日・水曜日。炎暑極まりなし。

7月18日・月曜日。本日、晴れのような、曇りのような、そして、ゲリラ雨。

だが、先の医師の言葉には考えさせられる。目的のためには手段は択ばぬ。目的による手段の浄化、という考え方である。これは私には、今なお悩ましく、解決され難い思考である。国家の生存をかけた戦争の場合、勝利は至上命題であり、敗北は考えてはならない。そんな敗北主義は、国家の消滅でしかないからだ。であれば、勝利のためにはすべてが許され、結局、原子爆弾はじめ大量破壊兵器の開発、使用も制限される必要はない。これは分かりやすい理屈であり、現実もそうなっている。現在、曲がりなりにも核爆弾の使用が自制されているのも、ただ相手国からの報復の恐れからだけであり、ここに核抑止力の理屈が成り立つ。これが正しければ、すべての国が核所有国を目指し、相手より一歩でも破壊力のある核開発に邁進する他はなかろう。こう見ると、現在の世界の平和(?)は誠に危ういバランスの上にある。

この論理が支配するところでは、戦争というのっぴきならない事態のみならず、人間生活のあらゆる分野においても、これは正当化され、是認される理屈であろう。事業活動にしても、利益のためには脱法すれすれの如何なる商売も許される。そのようにして稼がなければ、他社に抜かれて、事業の存立が危うくされる、という訳である。そんな激烈な競争の結果は、われわれの生活基盤そのものの破壊に至りはしないか。地球温暖化、環境破壊はその一例に過ぎないだろう。というのも、現代人の駆使する科学技術、機械力は、どこか牧歌的であった19世紀のそれとはまるで次元を異にし、最早自然の自己回復力を遥かに越える破壊力を持つに至ったからである。そしてここにあるのは、結局、弱肉強食の世界であり、強者にはすべてが許されるばかりか、こうして喰いつくされるオマエが悪いという思考、論理である。「アメリカファースト」は、これを一語で表した見事な標語に見える。だが、そこに救いはあるのか。

強者に食われる弱者は、しかし、ただ殲滅され、滅び去る他ない存在なのであろうか。強者とて彼らを食らうことでしか、生き残る他はなく、であれば強者の生存のためには、弱者は食い尽くされてはならないからだ。これが森林(海洋)の掟ではないのか。そのような互いの連鎖の中で自然の世界は守られているのだろう。この事実を動物界は良く知っており、彼らと生を共にしてきた民族はこの道を踏み外すことはなかったようである。だからそこでの生活は平穏であり、調和がとれ、持続的である(そうした彼らの生活を知ろうとすれば、ここでは先ず池澤夏樹『静かな大地』(朝日文庫)に描かれたアイヌの生活、その考え方を挙げておきたい)。

この問題はここまでにし、話を元に戻そう。その話の始まりは、わが国が中国東北地方、つまり満州に進出し、満州国を建国して日中戦争(支那事変)の泥沼にはまり込む直前、ハルピンに広大な生体実験施設を建設し、そこで繰り広げられた、各種の細菌に絡む惨たらしい人体実験であった。では、時満ちて潮目が変わり、両者の立場が入れ替わるとき、事態はどうなるであろう。次回ではこれについて私なりに考えてみたい。


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