2017年6月19日

6月19日・月曜日。快晴。暑し。

では今後は、ある人について「警察が脅威になりうると判断」するのは、いつ、どの様な状況においてであろうか。これまでは、ある人が違法行為を為したその時点で、彼は犯罪者として捜査の対象者となった。とすれば、「脅威になりうる」人ではなく、「脅威になった」人、つまり犯罪行為者であった(もっとも、前記のように、警察は従来から「容疑の有無にかかわらず」ある人々を監視してきたが、今後それは一層強化されると、かつての現場の責任者は見ている)。

犯罪にはれっきとした事実があり、それに基づき捜査され、容疑者、犯罪者が特定されるのに対して、未遂の容疑者とはどのようにして特定されるのであろうか。今回の法律では、277の行為が処罰対象になると言うが、そこには墓の盗掘とか山菜採りまで含まれている。その説明は真面目な思索、審議の結果とはとても思えない、クイズか頓智問答の類である。二人以上の人が集まり、相談し、会費を集め、現場の下見をする。そして、花見に出かけた。敷物を持ち、双眼鏡を持参するかも知れない。この限り、これが花見か、犯罪行為か、誰も見分けることは出来ないだろう。金田法相は当初、双眼鏡のような物の持参は疑わしく、そのように容疑の有無は「持ち物などの外形的な事情などから判断する」としていたが、後にこれはさすがに不味いと思ったか、それは「主観的の認定なくして認められない」と答弁を変更したのである。

花見の集団は純粋に花見を楽しむためかも知れない。しかし、そこにはあるタクラミが潜んでいるやもしれぬ。外見からこれを判定することは不可能である。金田氏とて、その事情はお分かりになったようである。ならばドウする。各人の心の中を見なくてはならないだろう。「内心の自由を侵すことでない」との西田議員の主張は、法相の発言によって否定されたと言いたい。

では、主観的の認定はどう為されるのか。「政府のやることに反対」しそうな、その意味で警察から怪しいとニラマレタ人々に対し、犯罪行為のある前から、網を張り、その知人、友人たちから、細大漏らさぬ情報を収集する方法である。われわれは、その網がどれほどの広がりと深さになりうるかを、ソルジェニッチンから知っている。それは誰をも信ずることが出来ない「密告社会」の到来である(池内 了氏)。まだある。「通信傍受などの捜査手法の拡大」である(青木 理氏)。現在、ソルジェニッチンとは比較にならない各種機器の発達は、当局にとって想像を絶する武器を提供するであろう。ここに成立する密告社会は戦前のそれとは質的にも量的にも異なる恐るべき社会、もしかしたらオーウエルの「1984年」の国家を彷彿させるような社会にならないだろうか。今や、現実がフィクションに追いつき、追い抜きつつある、と言ったらよいのか。私の不安は単なる杞憂ではない。公安部門を担当した元検察官は言う。この「法律ができたことは有意義だが、通信傍受の拡大などがないと有効につかえない」。まさに、青木氏の言葉を裏打ちしているようではないか。これに対して、アナタはどうする。今後は、それが問われている(この項終わり)。


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