2017年5月17,24日

5月17日・水曜日。曇り。今月末をもって、大学監事としての職務、ようやく一年となる。長かったような、短いような。これがあと三年続く。

5月24日・水曜日。曇り。少々、蒸す。このところ前年度の監査及び新年度の予算編成等に関わり、監事の業務も中々多忙であった(本日は前回の文章の引継ぎ)。

一方が日本中をうろつき回れば、他方は世界中を飛び回って、いずれも疲れを知らなかった。しかし、その彼らの寿命は、今で言えば、短命であった。檀は肺癌により64歳、開高は食道癌で58歳の命であった。むしろ、あれだけのことをして、よくぞそこまで生きたと言ってやりたい。やはり彼らは、「健康過剰」だったのだ。

だが、長命なんぞは両者にとってドウでも良かった。彼らが命の短さを嘆きながら逝ったとは、とても思えない。全てを覚悟の上で、思ったことを思ったとおりにやり抜いて、生き死んでいったのだと、私は思いたい。「人生一期、ただ狂え」と歌うようにして生き抜いたのは、あの団 鬼六であったが、この点では彼らも団に後れを取るものではなかった。もっとも、こう断言する理由を、私は一切持ってはいないのだが。

私は自分が蒲柳の質とも言うべき体質ゆえか、檀や開高のような人を見ると、やたら感心する向きがある。しかしそれは、ただ彼らが健康、頑健だからだ、と言うのとは大分違う。殺しても死なない、という人間はどこにでもいるだろう。そうではなく、私が恐れ入るのは、多分、彼らが「健康過剰」を元手に、周囲の心配、迷惑を物ともせず、自分の追い求めたものにマッシグラニ突き進む生き様なのだろう。開高の『ベトナム戦記』(朝日文庫1965)はその格好の例である。女房が言ったように、彼がこれに首を突っ込もうが、突込むまいが、大勢にはまるで関係ないどころか迷惑になるところを、米軍将校にわざわざ頼み込んで、朝日のカメラマンと共に戦闘地の真っただ中となっているジャングルに潜入し、ベトコンの機銃掃射に追いまくられ、果ては遺書まで書く始末であった。何日か消息は絶たれ、「開高氏ベトナムで戦死か」との報道が流れた程である。家族の心配、如何ばかりであったろう。

ここまで書いてきてフト思う。これは戦後直後の混乱期に無頼派と呼ばれた一群の作家たちに一脈通ずるものがあり、私はそこに共感しているのかも知れない。確かに檀 一雄はその一人であり、また友人太宰は無頼派の由来を、権力や束縛に反抗する「リベルタン」にあり、と言っていたように思う(『パンドラの匣』・河北新報社1946)。

しかし、それにもかかわらず、この見方は私の意に満たない。そんな風に言ってしまっては、無頼が反権力という裃をまとい、居住まいを正して、正当化される。これでは、先の「ただ狂え」ということにはならない。たしかに開高には、反権力的な姿勢が強く、だから一時期左翼的作家とみられ、ある筋からは敬遠されたようだが、私にとっての彼の魅力はそんなところにあるのではない。『日本三文オペラ』(新潮文庫1971)が織り成す猥雑で騒々しい世界はどうか。ここでは、戦後直後の大阪のかなり大きなばた屋部落と思しき地区において(彼自身、取材のために、どれくらいだか、彼らと生活を共にしたようだ)、その住民たちと官憲が、近くの広大な兵器工場跡に埋蔵された鉄屑をめぐって、毎夜繰り広げる争奪戦の死闘が展開されているが、その大真面目で、バカバカしい人間の可笑しみと哀れさ、逞しさが実に面白い。

かつて私も何かの「主義主張」に憧れ、我が生活を律しなければ、と健気に考えた時期もあった。が、いまこの歳になって思うには、自分も何かに縛られる事なく、世界を飛び回り、勝手放題のバカバカしい人生(もっとも我が人生が愚かでなかった分けではない、どころか十分バカバカしいものであったのだが)は面白かっただろうナ、しかしそうするには、自分にはそのための体力、精神力、何より覚悟において著しく欠けるものがあった、と諦める他はないのである(この項終わり)。


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