2017年5月2日

5月2日・火曜日。五月晴れ。先週、萌黄色の欅は早や深緑に。

すでに言ったことかもしれないが、私はそれほど健康ではない。たしか『火宅の人』の中で、檀 一雄が自分を健康過剰と言っていたのを読んで、そんな言葉があるのかと訝りながら、同時に羨ましい人だとつくづく思った。その言葉のとおり、彼は家庭を打ち捨て、愛人に溺れ、浴びるように酒を飲み、太宰や安吾と遊び呆ける生活(?)をおくって斃れることも無かった。自ら包丁をとるほど食にうるさく、料理に関する多くの著書を残した。しかも頑健さは肉体だけではない。口述筆記の手当てが付かなくなると、粗略の限りを尽くしている女房に頼み込むという豪胆さである。これはもう、並の男の成しうることではない。これには私も脱帽し、ただ感嘆した。「ソウカ、オヌシ、ソコマデヤルカ!」。

私の好きな作家に開高 健がいる。彼もまた檀流に言えば、健康過剰でどこまでホントの話かは知らないが、平野 健あたりから女の扱いについて訊かれるくらいで、その道の達人であったことは間違いなかろう。それでも今西錦司には性病予防の丸薬を突きつけられ、「なんだ、こんなことも知らないのか」と一喝されて、ここはアフリカの奥地ではないし、京都なモンで、と力なくうなだれる他なかったようだが(『人とこの世界』ちくま文庫、2009)。

彼の健啖ぶりは人の知るところである。『夏の闇』(新潮社文庫、19972)の中で、恋人から、貴方は汚穢趣味だから、と呆れられるような主人公を描くが、その通り、彼は東南アジアのごみ溜めのような場末に入り込んで、そんな不潔をものともせず、そこでの粥が好物であった。『オーパー』を読む者は、アラスカから南米の突端に至る釣りの大旅行に圧倒されるだろう。酒については何も言うまい。何しろ45度の酒が水っぽいと言うほどの御仁だからだ。

そして、家庭を顧みること皆無であったことも、人後に落ちなかった。だからホントに久しぶりに、家族揃っての会食後、レストランから帰って、一人書斎でご満悦のところ女房、娘が入ってきて、「あたし達を母子家庭のようにほっぽり出して、何処にいるんだか、生きているやら、死んだものやら、散々心配させて。マッタク。世界が一人でどうなるものでも無いのに。このバカヤロウ」と、耳元で痛烈な一声を浴びせられたのであった(『耳の物語』文庫ぎんが堂、2010)(本日はここまで)。


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