2017年4月7日

4月7日・金曜日。雨のち晴れ。本日、武道館にて大学の入学式(午前・午後に分けた二部制をとるも、いずれも満員。)。千鳥ヶ淵の桜、満開。堀の斜面を滑り落ちる櫻華の重なり見事であった。明日より、大学の業務平常に復す。

丸まる二か月に及んだ『収容所群島』考だが、今日こそホントウに終えよう。私自身、もういい加減、娑婆に出たいからだ。それには、話をあまり広げず、上手く纏めなければいけない。

個別の出来事の特性、それが抱える意味を全て明らかにし、理解することなどできるものではない。生とは汲み尽くし難い多様性と内容を湛えているからである。恐らく、この事を理解するか、しないかによって、ある事柄や事象に対したとき、その人のそれに向き合う姿勢は全く異なることになろう。傲慢になるか、謙虚になるかの違いである。歴史的出来事に対する畏れ、と言って良いのかもしれない。これに比べれば、事柄を一般化し、法則的な概念に押し込めてお終いとするような見方は、何ほどの事もない。これはゲーテに繋がり、ドイツ歴史学派はここから多くの霊感を得たように思うが、これを突っつくと、またもや迷路に踏み入るので、以下ではこれまでの話との関わりで考えてみよう。

スターリンの「群島」建設と拡大の意図は、反対勢力や政治犯を撲滅させて、彼の政治支配の安定化を図ることにあった。それが「肉挽き器」とも言われた苛烈な処置を生んだのだが、その結果は彼の意図を見事に裏切るものとなったのである。たしかに、信じられない数の人命が磨り潰された。しかし、これを潜り抜け生き延びた人々は、酷寒の中、重労働と不眠と飢渇の重圧を受けながら、なお体力、気力は横溢し、生の幸福すら感じられた。高い人間性を維持して生きている。何故であろう。そこには、まずは命をつなぐ食い物、ネグラはあり、これ以上何かを略奪される心配も無く、そして共に信頼し、語りあえる仲間がいるからであるらしい。それに反して、スターリン死後、群島から釈放された彼らは、家族のもとに帰って安心すると、生への意欲を失い、一挙に消耗して果てたと言われるのである。

ここには、スターリンの思いもよらない人間の生命力・精神力の強さがある。彼の残虐を生き抜いたソルジェニーツィン初め多くの人々が、彼を歴史の闇から引きずり出し、弾劾するに至った。さらには、揺るぎない独裁、体制と信じ、だからこれにすり寄り、権力を恣にした人間集団も無傷では済まなかった。その他悲しみを負わされた人たちの告発が続く(同種の問題が我々に対して、今、韓国の人々から提起されていることを忘れることはできない)。

あるいはまた、幸・不幸とはどういう事か、という問題を考えさせられる。これは、物質的な条件は無くてはならないが、それにしがみ付く必要も無いという、古くて、新しい問題である。さらに、弾圧を乗り越える力を得た者は、そこから逆に、新たな地平を開き、別種の幸福に至りうる、という著者の言明に打たれる。このくだりに触れたとき、「虐げられた者は幸いなり。天国は彼らのものなればなり」との、イエスの教えの意味の一端に初めて触れえたような気がした。だから弾圧は許される、などと誤解してはならない。理不尽な圧政には、断じて闘い、これを叩き潰さなければならない。だが、それとは別に、弾圧者の意図を遥かに越えたところでの平安を著者が見出したという事実は、圧倒的な権力に喘ぐ、様々な国の多くの人々に、常に変わらぬ勇気を与え続けるのではないだろうか。これまで、長々と書き連ねてきたが、何か書き切れていない不満が残る。ご関心の向きは、是非、本書に当たり、自身でお考え頂きたい。ここでの文章が何がしかの刺激になれば幸いである。


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