2017年3月7日

3月7日・火曜日。曇り時に雨。この所、卒業式(付属3校の中学・高校及び大学)他種々の式典、来年度の大学予算、これに関わる会議等への出席により多忙を極む。過日は久方ぶりに、早朝(?)の通勤ラッシュを味わう。ただ、2,30年前に比すればそのムゴサは半減されたか。

だが、囚人たちを酷使し、何がしか社会的・国家的な目的に役立たせようとの発想や取り組みは、勿論、ソヴィエトの専売ではない。凶悪な犯罪者たちは、先ずは社会から隔離し、市民生活の擾乱を防ぎ、安全を守らなければならない。しかし他方でそれは、社会の石潰しを養うことである。そんなことが許されるわけはない。こうして、獄への収監と囚人の使役が結び付けられたのであろう。

わが国では、明治政府が北海道開拓を目指し、早くも明治14年、月形に樺戸集治監を建設し、ここを拠点に空知、釧路、網走、帯広へと拡大していった歴史がある。ただ丸木を打ち付けた牛馬の納屋にも等しい建物に囚人を押し込み、酷寒の地には耐えがたい衣食しか与えられず、やはり過酷な労働が課せられた。彼らは二人一組に縛られ、足には鉄球を括り付けられる。夏場には、蚋、アブ等の襲来の中、全くの人力によりながら、密集した原始林を開き、深い湿地帯の灌漑に明け暮れ、1キロ、2キロと道路を繋げていくのである。冬季の作業の悲惨さは言うまでもない。こうして、炭鉱が掘られ、鉄路が通った。その後の北海道の発展の基礎がこのようにして据えられたとすれば、一本の道路の下ですら、何層もの時間と人間の命が埋め込まれていることに気づかされよう。

ところで囚人たちの命は、惜しまれる理由はない。彼らは処罰されるべき対象であり、そうしてこそ犯罪は抑止され、社会秩序は守られるのである。同時に、その労働が監獄経営の諸経費をこえた富をもたらすならば、何よりの事に違いない。殊にここでの事業は、やがて心配されるロシアの南下に対する第一の備えも兼ねていたのである。政府としては、なすべき政策、対策をとったという以上の意味はなかったであろう。いわんやここに、生への憐憫、尊厳の意識などあろうはずもなかった。

しかし、囚人は意思も意欲もある、れっきとした人間である。このままこんな所で朽ち果ててたまるか。自由への渇望はやみがたく、だから脱獄に絡む刑吏、監獄当局との闘争は絶えなかった。そうした囚人たちの苦悩、悲しみに寄り添い、彼らに思いを寄せた典獄(所長)のいたことは、この物語の一つの救いであったろう。有馬四郎助である。原胤昭の薫陶を受けて、キリスト者となる彼は、後に「愛の典獄」と呼ばれるほどの人であった。これらについては、山田風太郎『地の果ての獄』(1977)が実に面白い。また吉村 昭『赤い人』(1977)では、囚人たちの生活、逃亡の闘争がリアルに描かれているように思う(本日はこれまで)。


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