2017年2月23日

2月23日・木曜日。雨のち曇り。風緩むも夜半より寒波襲来との予想在り。

スターリンの収容所群島建設の意図は前記のとおり、先ずは彼の反対・対抗勢力の殲滅であった、と言えよう。そんな大それた意思は全くなく、ただ革命後の祖国の建設に献身したいと願った外国からの自主的な帰還者、捕虜帰還者がたちまち群島送りになったが、それは西側スパイや反スターリン主義の恐怖からであった。これに国内の不満分子と疑われる膨大な市民が政治犯として一網打尽にされた訳だが、彼らにはまた別の課題が課せられた。ロシア僻地の開拓、開発の任務であり、具体的には、石炭・鉄鉱石の採掘、森林伐採、道路・鉄道建設、運河建設等がそれにあたる。

例えば、悪名高い白海運河の建設は、白海からバルト海を結ぶ計画(約220キロ)であり、これをほとんど人力によって、しかもすべてが不足する酷寒の最中、20か月の短期間のうちに完成させた(1931-33)大事業であった。だから、これを視察したゴーリキ初めロシアの高名な作家たちは、英雄的事業であり、かつは「矯正労働」による政治犯の「再教育の成果」として讃えることになったが、彼らはその背後の殺人的・非人間的な悲劇を看過し、隠蔽した廉をもってソルジェニーツィンから断罪されるのである。

また、ヴォルガ=バルト海運河建設も凄まじい。「ヴォルガ=バルト海運河のときは、ヒムキのすぐ近くの場所へまだ収容所のできる以前、水路測量の終わった直後に運ばれてきて、自動車から降ろされるや、土をつるはしで堀り、手押し一輪車で運ぶように命じられた(新聞は「運河建設の現場に機械が運ばれた」と報道した)。パンはなかった。自分たちの土小屋は、自由時間を利用して掘ることになっていた(今やそこを観光船がモスクワっ子たちを乗せて通っている。だがその底には人骨が、その土中には人骨が、そのコンクリートの中には人骨が埋められているのだ)」。

こうした形容を超える過酷な強制労働は、たちまち人命を消尽させる「肉挽き器」に変じるが、それは当然、人力の補充の問題を引き起こす。当初は恐らく政治的な意図から拘束された政治犯は、時と共に労働力へと意味を変え、政治には何の関心もない一般市民たちが当局の割り当てによって理不尽に群島送りとなった。当然、彼らの多くは何故拘禁されたかも分からず、何かの間違いとして、だからすぐにも釈放されるだろうと、抵抗もせずただ事態に従ったようなのである(今日はここまで)。


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