2017年1月13日

1月13日・金曜日。快晴なるも、近日中に大寒波襲来の予報あり。

ここで私が「詩論」を論じ、それとの比較で散文詩なるものの何たるかを論じられれば上等だが、ソンナ教養は微塵もない。それゆえここでは「散文」を「詩」との比較で定義した一文を挙げてご勘弁いただこう。「散文」とは文芸上の表現手段であるが、特定の表現形式を持たず、文章上のリズムは多様であり、あらゆる日常の言語表現に密着しているという点で、「詩」とは区別される。つまり、「散文と詩との顕著な相違は音律、リズム、ときには扱う主題等のうちにみられる」(Britannica Concise Encyclopedia)と言うことらしい。

これを逆に言えば、「詩」とはある特定の形式(詩行)とリズム(音調・韻律)を持ち、内容も叙事詩、抒情詩、劇詩等に分けられ、それらを表す表現様式も直喩、隠喩を含む直接的な記述から象徴主義にいたる技法も多様である。そうした詩形の変容、技術の革新は、恐らくその時々の人間がもはや抑えてはおけない身内から迸る真の喜び、苦しみを表現しようとするとき、それらはもはや従前の形式ではとても収まらないような質的に異質のものへと変容し、これに促されて開発されてきたものであろうか。とすれば、これらの歩みは絵画、音楽、文学、建築のそれらと同じであろう。つまりそうした歩みは、人間社会、歴史そのものである。

こんな、自分でも訳の分からないことに関わっていれば、肝心の散文詩の問題を忘れてしまう。ところで、散文と散文詩との厳密な境界線は引けないようだ。散文詩には「定型詩の韻律・押韻形式はもちろん、自由詩の顕著なリズムももたず、また一般に行分けをせずにパラグラフ単位で統一される詩」(ブリタニカ国際大百科事典より)と言われている通りである。それでもここには、単なる散文にはない「内容の高潮に伴うリズム」がある。このリズムをより構造的に明確にしようとすればそれは限りなく「詩」の領域に近づくだろう。事実、「散文詩は…一定のリズム、明確な定型的な構造あるいは情緒的ないしイマジナティブな高揚と言った詩作の特性」をもつ作品もあるからである(Britannicaより)。確かに両者の厳密な区分は難しく、最後は読み手の感性の問題になるのかも知れないが、にも拘らずそこには超えることの出来ない境界線があるのではなかろうか。ある散文はドウ転んでも散文でしかないというように(本日はこれまで)。


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