2016年12年12日

12月12日・月曜日。晴れ。本日、母の命日。一年前のことである。この二三日の快晴により、わが家のソーラーパネルの稼働力高し。

これまでご大層な議論を重ねてきたが、それは何のためであったか。読者はもうお忘れであろう。ズーターの話を。彼がナゼあのような惨い仕打ちを受けなければならなかったか。これを、私なりに解いてみたいという思いからであった。歴史学的に、社会科学的に?

その答えは、いまや簡単である。まず、法の支配が破られていた。裁判所は言っていたではないか。ズーターの主張は正しく、彼の権利は回復されなければならない。彼の土地は彼のものに、そして発生した損害は金銭的な補償を、と。この判決に怒り狂った住民たちは大挙して彼の所領を襲撃、略奪するも、国家はこれを放置し、その後の彼の訴えを完全に黙殺したのであった。つまり、ここでは合衆国は法治国家としての体をなしていなかったのである。だが、国家とは本来そんなものなのかもしれない。圧倒的な利害の前には、個人(とくに権力無き個人)は抹殺されてしまうのであろう。

ズーターはまたカリスマの所有者ではなかった。彼に心酔し、彼のために命を投げ出し、彼に従う人びと、組織は皆無であった。それが証拠に、金が出た、と知られるや否や彼の部下、奉公人の誰もが、その仕事を放り出し、主人の命令を無視するばかりか、それまで多少の恩義を蒙った主人に対してまるで知らない赤の他人のごとくの振る舞いであった。そして、彼には彼を敬わせる歴史的な伝統、それに由来する高貴さというものも絶えて無かった。十年に満たないヨーロッパからの流れ者には、従者たちが自然に敬意を払えるような高貴さを期待するなど、所詮無理な話であった。

いずれの面からみても、彼は自身を守る手立てを欠いていたのである。彼の不幸は一個人として負える数千、数万倍の富を一挙に手にし得たところにあったのかもしれない。しかしそれは彼の罪、落ち度であったのだろうか。ヨーロッパでの彼の生活には如何わしい点も無かったわけではないが、アメリカ合衆国での彼は懸命に働き、工夫と努力を重ねてその地位を自ら築いたのである。その彼が栄光の末の地獄を味わった。これを運命の残酷と言わず何と言おう。運命は彼を、二度にわたって絶頂の喜びをチラツカセながら突如奈落に突き落とした。ヴェーバーはあるところで言っていた。「悪魔は老獪である」と。こんな悪魔に魅入られた者こそ哀れである。さらにこの話は、あのギリシャ悲劇に繋がる物語りを思わせないであろうか(この話は、今回をもって本当の終わり)。


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