2016年12年5日

12月5日・月曜日。晴れのち曇り。気づけば師走。明日、寒波襲来との由。

本日は老眼鏡を忘れ、前回の文章を読むも、磨りガラスの向こうを見るようで、ボーっとかすんであまり良く理解できない(自分の文章が分からないというのもヘンな話だ)。加えて、先週休んだため、話の接ぎ穂を忘れてしまった。だから、ドウ続けてよいのか戸惑っている。だが、これで止める訳にはいかない。

ともあれ、依法的支配とは定められた法への信頼を基になりたつ政治体制であり、その社会である。だからそれは、多様な権限、権力の行使(特に行政府のそれ)は法によって規制、拘束されるという法治主義の原則にたつ社会である。そして、その法は憲法を頂点に下位の法律とその権限が定められ、しかもそれらは互いに関連する無矛盾の合理的な法体系として整備される。さらに、これを基礎として、その権限、権力を「精密な機械のごとく」(ヴェーバー)行使する官僚機構が聳え立つ。

しかもここでの法の特徴は形式主義的である。形式的要件が整えばその内容は問われない。たとえば生活保護の申請の場合はどうか。彼は必要な書類を提出し、役所はその書類の形式要件を審査して、適法であれば承認する。その場合、申請者が殊更に脱法行為を働かなくとも、法に定められた範囲の所得、資産しかなく、実際はともかく、書類上、とても真っ当な生活ができないと証明されれば、保護は受けられるはずである。他方で、真に生活苦に喘ぐ貧困者が拒否される事例も出てくるのである。ここに、役所の形式主義という非難、怨嗟の尽きない理由がある。

だが、情実や実質主義を排し、形式主義をとった事で、行政、即ち役所の効率性、生産性は格段に上がった。申請された案件が何であれ、門地門閥、社会的貧富の差も無く形式平等的に審査され、決裁されるからである。法を枉げて解釈し、ある人を優遇して、それが発覚すれば、司法の裁きを受けなければならない。今、韓国で起こっていることはそれである。

ここで、もう一点付言しておきたい。権力の行使は何であれ、法律の裏付けがある。また、なければならない。逆に、法に書かれていれば、その限りその行使は最大限可能である。また、その法に触法する行為は全て違法であり、処罰の対象になる。「悪法も法なり」とは、これを言うのであろう。戦前、戦中に治安維持法で検挙、拘束された思想犯、政治犯が獄中、惨い拷問、獄死にあったが、それもまた適法として問われなかった意味を想起すべきであろう。同様に、戦争指導者たちは、法的には何ら犯罪者にあらず、と擁護されたが、それは彼らが国内法の一条も違反していないからであった。これを一歩すすめれば、法の作り方によって、社会の仕組み、構造は一変するという怖さがある。昨日まで禁止されていた事が、今日は許される。例えば売春、賭博がそうだ。つまり、権力を持つ立法府の意図によって、国家はどうにでも造り替えられるのである。さらに、法の適用は貧者や弱者のためになされるのではない。法解釈上で正しい、その意味で正義であると認められる者の側に立って執行されるのである。能力のある弁護士を雇える金持ちや強者が、しばしば救済される理由である(本日はこれまで)。


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