2016年11年24日

11月24日・木曜日。雪のち霙。この初雪は記録的な早さとか?

ヴェーバーはこの伝統的支配とカリスマ的支配の人々の行動の違いを、昔から「—と言われている」に対して、「私は—と言う」というイエスの言葉を巧みに引きながら、鮮やかに示した。昔からこう言われ、そう決められてきたからそれに従うという姿勢は、先にも言ったが安定的な社会を造るが、同時にそこでは様々な矛盾、軋轢を胚胎させることになる。それは人間社会では免れえないことである。そうした社会の沈滞、堕落を一挙に解体、清算するのが、「俺は—と言う。こうする」と言って、それを実践するカリスマの出現である。

旧約聖書に現れる数々の予言者たちは、常人からは狂人としか思えぬ出立と言葉をもって安逸にふけるユダヤの民を叱咤し、悔い改めを迫った。同じことはペテロ(巌の意味)のうえに築かれたカソリック教会の安定とそれゆえの腐敗がルッター、カルヴァンを生んで、革新がはかられた。西欧史のダイナミズムを、ヴェーバーはこのようにカリスマ的支配と伝統的支配の対立、相克の歴史として捉えたとも言われるのである。こうした図式は社会や歴史の流れを見るのに、なかなか便利で、ナポレオンやヒトラーの出現、またこの度のトランプの選出も、この枠組みからみられなくもない。ただ、注意して貰いたいのは、これで全て歴史が分かったなどと思わないでほしい。これでは、歴史や社会は偉大なカリスマの所産ということになりかねず、歴史は傑出した人物伝で事足りるであろう。だが、そうはいかない。一人の人間のやれることなどたかが知れたものだからだ。

では、3の依法的(合法的)支配はどうか。まず依法的の言葉だが、これは広辞苑、日本国語大辞典に収載されていない。にも拘らず私がこの用語にこだわるのは、この語が訳語として取られているという事実と、確かにこれはヴェーバーの真意を言い当てているように思うからである。

これは、法として認められた規則に対する信頼、それへの依拠(だから依法的とも言う)を基礎に、支配、服従の関係が成立する支配のありかたである。ここには述べなければならない、しかし私の能力に余る法の発生や成立過程、それにまつわる法の表現形態、つまり成文法(大陸法)、不文法(英米法)の相違やら難しい問題がいくらでもある(実は、ヴェーバーは法学出身の学者であり法制史、法社会学の専門家でもあったから、そんな分野にも精通していたのである)。が、それらはゼーンブ無いことにして、ごく乱暴に言えば、人の行動は法に依拠して処理されるということである。

政治家や役人による行政上の権力行使は、法に定められた手続き、範囲内であれば違法ではない。適法であり、それゆえ処罰の対象にもならない。だから、前都知事、舛添要一氏が、政治資金の使用について違法性は無いと、しきりに強弁したのである。元東大法学部助教授の彼としては、その使用方について、法的に問題がなかったばかりか、前任者、石原氏に比べても問題にならない、つまり慣習的に言って、適法であると確信したに違いない。しかし、氏の場合、法以前の習俗や人倫、道徳に反するものとして、社会の指弾を浴び、都知事の職をはぎ取られたのである。そして、事の適法性の判断は、司法の決裁による。また、現存の法では対応できない事案が頻発し、政治問題化したときには新法が求められるが、それは立法府の任務となる。これが、三権分立の教科書的説明である(まだ少々説明を要するが、今日はこれまで)。


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