2016年11年4日

11月4日・金曜日。快晴。

こんな風に、ホッブスを解釈し、ヴェーバーと結びつけることが出来るのか、またこれを保障する先行研究、論文のありやナシやについては、私は何も知らない。こんな無責任が許されるのも、「手紙」ゆえの気軽さである。だから、以上は、わが妄想・妄言でしかないかも知れないと思う反面、もしかしたら画期的なホッブス論である可能性がまるで無いとも限るまい。とすれば、読者はいち早くそうした卓見に触れえた喜びにタップリと浸るがよろしい。と、厳かに申し上げておく。

では、ヴェーバーの支配の正当性とは何か。彼はこれを三つの類型に分けて説明する。思うに、彼は事柄を類型化して考えるのが好き、というか得意であった。これによって、入り組んだ複雑な社会・歴史事象が整理されると共にその特徴が浮き彫りになって、そこからその事象の因果的な理解、解明が進むのである。だが、この事情を理解するには、かれの著書を一二お読み頂くほかは無く、多忙な読者には無理な要望ゆえ、この話はこれまでとする。

さて、先の三つとは、1、カリスマ的支配、2、伝統的支配、3、依法的(合法的)支配である。何やら馴染みのない言葉で申し訳ないが、以下簡単に説明しよう。1のカリスマとは、かつて「カリスマ美容師」なる言葉を聞いて驚かされたが、そこには満更間違ってもいない意味が込められていた。つまり、並の美容師には及びもつかない技の所有者と言うほどのことか。もと、「神の恩寵」に由来し、特に旧約の予言者たちに授けられた予言的超能力をさし、そこからさらに奇跡や常人をはるかにこえた能力を発揮する人々を意味するにいたる。ヴェーバーはこの言葉を宗教的指導者から政治的分野に拡大援用した。そして、この支配の眼目、中心点は、彼とその従者たちとの関係が指導者のそれまでの成果の偉大さに心服し、ただその命ずるままに従う関係にある、ということだ。そこでは、理屈や説明は必要ない。イエスと十二使徒はそんな関係にあったろう。

それゆえ、カリスマ的支配が成立するのは、その能力が持続される限りでしかない。神からの恩寵というその能力の特殊性から、相続など問題にもならない。またそこでは、基本的に規則や組織に類するものも必要ない。ただ、師に対する圧倒的な心服、帰依によって事が運ばれる。それゆえそれは、最強ではあるが永続性を欠いた、その限り脆弱な関係である(今日はここまで。以下次回)。


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