2016年10年28日

10月28日・金曜日。雨。

他者を自分の意志のもとに置く、すなわち「支配」するとは、どんな人間関係を言うのであろう。こんな難しい問題に私が答えられるわけもないが、ほんの参考までに言ってみよう。一つは愛(アガペー)であり、いま一つは暴力である。ここでは、前者は棚上げにし、後者の問題のみを考えたい。

東洋思想は知らず、西洋でこの事を根源的に考えたのは、ホッブスではなかったか。彼はピューリタン革命(1642-60)の動乱の時代に思索した政治思想家だけに、暴力のさ中にある人間の性を知りぬいていた。ヒトは生きんがために、非道も人道もない、なしうる全てのことを為すのだ。それを当然のことと見做して、愧じ入る必要もない。諸々の規範が消滅して、原初の自然状態に返って仕舞えば、人間とは、結局、そういう存在だと、彼はみたのであろう。ここで支配するのは、相手より強いか弱いか、つまり暴力の原理である。

しかし、人間が相互に争うとは、どういう事か。彼ら両者の力がほぼ均衡しているという意味である。考えてもみよ。自分と相手の腕力が一対千ほどの差異があって、なお相手の理不尽に怒り心頭、飛び掛かる人間はそうそういるものではない。そういう人の事を、世間知に長けた大人は「バカ」と呼ぶのである。「尊王攘夷」に駆られた長州藩が馬関戦争(1864)を仕出かし、英米仏蘭から手ひどい懲罰を受け、一転、開国に転じた例を思え。この伝で言えば、先の日米開戦は何であったのか、呆然とするばかりである。

ホッブスによれば、人間の能力は均等である。そこに差異が生ずるのは、彼の付く職業によってである。こうした彼の人間観はアダム・スミスに受け継がれた。ともあれ、彼がそう考えたとすれば、彼の社会から闘争が止むことはない。これでは、ヒトは生きていくことは出来ない。生きんがために、彼の為しうる一切を為すという、彼の権利・権能の行使の結果が、自らの生命を失うという、何たる皮肉。ここに想到することで、人々は己の権利・権能を放棄し、これらを彼らの選ぶ人間に信託するが、それは彼が社会の平安と人々の生命・財産の保全を保証するからである。支配者と被支配者の存する社会の成立を、ホッブスは概ねこんな風に説明するのである。

その後の社会契約説の基礎ともなった彼の理論は、批判されるべき点は、もちろん多いが、現在社会の問題を考えるに際し、非常に有益だと私は思う。ここでは、君主の王権は神から直接彼に授けられた、故に人は彼の支配に服すべし、とする王権神授説にたいし、ホッブスは神を持ち出さずに、人間の理性に基づき、人民相互の納得尽で支配・被支配の社会関係、その体制が成立したことを論証した点で、彼は近代政治理論の嚆矢であった点を評価したい(シュンペーターがそう言ったと思う)。

ズーターから随分離れてしまった。だが、そうでもない(乞う、次回)。


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