2016年8月23日

8月23日・火曜日。台風翌日の蒸し暑さ。不快。

オリンピックが終わった。日本選手の活躍は「想定外」の目覚ましさであり、国民の多くは、彼らのプレイに一喜一憂しながら、勝敗の帰結、メダルの行方を追って、夜を昼に取り違えた二週間を過ごしたことだろう。私もその一人である(と言って、私の場合、オリンピックならずとも、こんな生活を何十年と続けてきたのだが)。そして、考えさせられる事も幾つかあった。本日はそれを記してみたい。何かの参考になればと思う(よって、勝手ながら、前回の末尾の予告は取りやめとする。そんな我儘も、勝手に書ける「手紙」だからこそであり、これが契約であれば、そうは行かない。なお、かの問題については、これまでも何度か触れたような気もするので、ここで打ち切ってもよかろうと判断した次第だ)。

わが国のメダル獲得総数は、金12を含めて41にもなり、参加国第六位(金メダルを基準とする)と大健闘であった。そうした選手たちの活躍を、素直に称えたい。彼、彼女等の必死のプレイは、我ら日本人の誇りと勇気を呼び覚まし、明日への活力を大いに引き出した。4年に一度の大舞台、国を挙げてのトップアスリート達の競技である。他の競技大会とは比較にならぬ感動と効果を齎すのは当然である。さらに、各選手たちのそれまでの準備や努力、家族らの全てをなげうった協力、献身の物語を知らされるならば、勝敗の一瞬に抱く観戦者の心情は、身内ならずとも身につまされ、ここには単なる勝負を超えた深い哀歓の情に包まれもしよう。勝った時の選手の喜び、敗者となったその無念さは、選手と観戦者を一体となし、共々に泣き、笑うのである。このような感動と一体感は、他では味わえないスポーツこそのものではないか。鍛え上げた体、その繊細さと躍動美、剛直と柔軟さ、沈着と闘争、それらが息つく間もなく展開し、観る者の全てを忘れさせ最後の決着へと釘付けにするのである。鍛えれば、人間とはこれほどの能力を持ちうる者なのか。同時に、自分もまた彼らと同じ日本人であることに、なにか掛け替えのない喜びを感ずるのである。

これが人の情というものであろう。この点では、日本人も他国人も変わりはあるまい。私はこれを、そう言ってよければ、素朴なナショナリズムと言っておこう。

スポーツの魅力、その社会的・教育的効用、影響力は計り難いが、それ故に、ヒトラーのように、スポーツを政治の道具として利用するケースはしばしばある。国家的行事としてのスポーツ、殊にオリンピックであればなおさら、常にそうした側面のあることは、改めてここで取り上げるまでもない。むしろ、私はそれとは少々異なる点を見てみたいと思う(以下次回)。


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