2016年8月8日,16日

8月8日・月曜日。熱暑、熱風により極めて不快。台風の余波のため。(8月16日・火曜日。蒸し暑し。台風接近)。

ギリシャ神話(それを基に創作された『ギリシャ悲劇』)の世界では、事象の全ては、まずは神々が生み出し、引き起こしたものとされる。だから、生じた事は単に起こったことではなく、その背後には何事かの神意があり、それを語ったものが神話である。その世界は実に広大であり、錯綜している。宇宙や自然界の誕生とその変遷(宇宙創成論)、人間の誕生物語、あるいは「火」は、プロメティウスによって人間界に持ち込まれたとするような各種の技術等の起源論、そこから生ずる神々に対する祭儀、祈祷の成立と遵守、天変地異や悪疫の由来、神々に繋がる家系や民族の歴史、さらに、そこには各地域に伝播された伝承、歴史事象も含まれ、そうなれば神話を通してその時代、地域の歴史認識の一級の資料ともなる。シュリーマン(1822-1890)がホメロスの物語からトロイ文明の遺跡を発見し、それが単なる伝説で無いことを証明したのは、格好の事例であろう。

のみならず、神話には長い時間をかけて、人間の無意識、下意識が神に仮託されて形象化されているから、そこでは人間の赤裸々な欲求、醜悪さや悪事、だが同時に正義、真理、美への渇望が一体となって語られ、こうして人間研究の尽きざる宝庫である。だから、ローマ、中世世界から現代にいたる文学、芸術の発想源となり、多大な影響を及ぼしたとは、なにもここで改まって言う話しではない(このような神話の多様な意味世界は、ただギリシャ神話に限らない。以上は、たとえば『古事記』についても同様に言えることである)。

だが、私はまた悪い癖がでた。これを言いたかった分けではないのだ。事象は良くも悪くも、神々の振る舞いによって引き起こされ、人々はそう説明されて、一応は納得した?なかには、面白いけど、ホントかと感ずる人もあったであろう。そうして、事柄をそれに即して観察し、考えようとする人たちも出てきた。彼らは後に哲学(Philosophy)する人、つまり「知を愛する人」と呼ばれる。アリストテレスはその始まりを「万物は水からなる」と説くタレスとしたが、彼自身はさらに、火、土、空気を加えて、この四元素の組み合わせから万物はなると解した(ただし、天体は第五元素のエーテルからなる)。これには原子論を説くデモクリトスの立場もあり、そしてこの元素と原子の関係が私には不分明だが(実際、エンペドクレスには両者が併存しているらしい)、いずれにせよここには、自然事象を要素に還元して、そこから捉えようとする現在に繋がる発想がみられる点で興味深い。

他には、数を事の本質とみるピタゴラスやアラビア由来の自然学の影響も看過できないが、しかし中世の自然学はアリストテレスを基礎にしていた。それは、トマスアキナスによってカソリック神学体系の中枢に据えられた事をみても明らかである。たしかに、彼のそれは動植物の分類、その発生において一頭地を抜くものであったが、しかしそこには近代以前の生物学特有の目的論が拭いがたく、それが神と結びつけられていた点で、近代科学には直結しない。また、事物が落ちるのは重いからだ、とする落下説はただ見られる事象の説明に過ぎず、それは実験を欠いた思弁にとどまる。近代科学は、この大権威をドウ否定し、克服するかに掛かっていたと言えよう。この意味で、F・ベーコン(1561-1626)の実験の導入は画期的であった。彼にとっても、「自然」は神の書いた第二の書物であったが、しかし実験によって、思索はただの思弁ではなく、事実に基づき検証される道が開かれたからである。実際、同時代人、G・ガリレイ(1564-1642)の地動説の承認や落下法則の発見は、膨大な実験と数学的手法による成果である。かくて、ここに近代科学の基礎が据えられたのである。

長い話になった。私は、ただ、科学的思惟の道筋は、もとはと言えば、ギリシャ神話の否定の上に付けられたと、言いたかっただけなのだが、コンナ事になってしまった。いずれにせよ、今では、事象はそれを成り立たせる事物、その最小単位の物質の性質、その法則によって必然的に決定されることになる。とすればここには、神や魔術や悪意や何やらの介在の余地はない、としなければなるまい。

私はこうした歴史の認識の歩みとその成果、その偉大さをすべて認める。にもかかわらず、言いたい。これまでの我が人生を俯瞰したとき、それでは割り切れない何かが残る。これを否定出来ないのである。私を導く何者かの手を感ずるのである。そんな印象は、なにも私だけのものでもあるまい。もうだいぶ前のことになるが、遠藤周作が「私の履歴書」(『日経新聞』)において、自分は神の声を聴いた、と書いていた。だが、私の場合、それを神とは言えない、何者かと感ずるだけなのだが。

さて、もう一点、言うべきことがある。人々の生活が意思に反するものとなる、その次第を自然科学とは別の社会科学はどうドウ考えてきたかである。これについては、次回(それで、本項はホントに終わり)。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です