2016年7月25日

7月25日・月曜日。曇天なるも、蒸し暑し。

前回の話を一言にしてまとめれば、テーベの住民を苦しめる疫病の原因を探り、これを除去する事、それをオディプスは王の務めとして誠実に、妥協の余地なく実行し、ついに完遂した。だが、その事自身が悲劇であった。ここに、人は何とも言いようのない人生上の皮肉、不条理をみるのである。ソフォクレスはそれを、一場の劇空間の中に圧縮し、見事に提示したのである。この劇が後代に及ぼした影響は計り知れないものがあったろう。

さきに私は、善意思なる言葉をさかんに使った。それと言うのも、カントが『道徳形而上学原論』の中で(だと思うが)、ある人に卓越した能力、例えば政治力、経済力、あるいは研究能力等でいかに恵まれていようとも、そこに善意思を欠いていれば、その所業それ自体遺憾ともしがたい、のみならず彼の能力が優れていれば、それだけ結果は惨いものになると指摘していたように記憶しているが、そのことに触発されたからである。他方、本書では、人間を手段としてしか見ない「手段の王国」に対して、人をその在るがまま認め、尊重する「目的の王国」を対置しており、私はそうした王国の建設をこそ目指したいものだと、若き心(私にも確かにそんな時代があったのである)を揺さぶられたものである。しかし、ソフォクレスのこの話は、そんな思いを破壊するに十分のものがある(今日はこれまで。実は前回の文章に手をいれ、二か月分の全文を読み直していたため)。


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