2016年7月20日,22日

7月20日・水曜日。晴れ、暑し。(7月22日・金曜日。雨。なお、本日は前回の補足、修正として。 驟雨さり 杜を揺すぶる 蝉しぐれ)

父ライオスは誕生した我が子を直ちに始末しようと、キタイロンなる山中に遺棄させる(私には、ドコの山かはサッパリ)。しかも、両足のかかとをピンで刺し貫かせて。そのため両足が膨らみ、オディプスと呼ばれる彼の名は、これにちなむという。しかし、乳児は死ななかった。隣国コリントの羊飼いに拾われ、コリント王、ポリュボス夫妻の許に届けられるが、子供のいない彼らは我が子として引き取った。かくて、彼は王位の継承者ともなった。だが、長ずるに及び、自らの出生に疑念を抱いた彼は、全ギリシャ人の尊崇を受けるデルフォイの神殿に詣で、「父を弑逆し、母を娶る定めにあり」との驚愕の神託をうける。この予言は、断じて成就させる分けにはいかぬ。彼はコリントへの帰還を断念し、テーベに向かうが、丁度「三又の道」の所で一人の男と出会う。その折の彼の振る舞いは余りに無礼であった。ついに争いとなり、彼を殺してしまう。その男こそテーベからやって来たライオスであった。

折しもテーベでは、スフィンクスが跋扈し、怪しげな謎を掛けては人間を食らうという凶事が、住民を困惑と恐怖に落とし込んでいた。オディプスはその謎を解き、スフィンクスを退治し、その功によりテーベ王に迎えられる。同時にライオスの妻であるイオカステを娶った。そうしてかれは、二人の息子と二人の娘の親となった。

ここに『悲劇』の幕が開く。一般に、ギリシャ悲劇は、筋全体が書かれることはない。主題のクライマックスだけが切り取られ、劇化されるのである。すでに言ったことだが、観客には筋の全貌は周知の事で、今度の上演作がどう改編、脚色されて、新たな世界を提示するのか。これを観に来るのである。

エディプス王の話は、神話やホメロスの中でもかなり出来上がっていたようだ。ここでのソフォクレスの創意は「王の秘密の素性探索の経路」(高津春繁)にある、と言われる。これについては、一言、補足しておかなければならない。

まず、これに至る筋道を振り返ってみよう。それぞれの人たちは、すべて己の意思と決断によって、だから自らが自らの主となってその行動を決してきた。しかも、エディプスやライオス、イオカステもテーベにおいては何ら咎められるべき悪事を犯してはいない。まして、エディプスは父殺しの罪を負うまいと、自ら故郷をすてたのである。そうした善意思の集積が、結局、予言を成就させてしまうという、人の生の宿命とその恐怖である。作者は彼の苦しみをこう言わせた。

「おお、キタイロンよ、なぜおれをかくまった?この素性をおれが世にあばかぬように、どうして受け取った。その時に、すぐさまおれを殺してくれなかった?おお、ポリュボス殿、コリントスよ、名のみ父祖の古い館よ、お前が育てたこのおれは、表はきれいだが、なんとその裏にはうみをもった子であったか!おれは今や悪者で、悪い生まれであることがわかった。おお、三つの道よ、かくれた谷間よ、三つまたの道の藪と細道よ、お前たちは血を分けた父上の血をおれの手から飲んだな。覚えているであろう、おれがお前たちの面前で何をしたかを、それからここに来て、また何を行ったかを。おお、結婚よ、お前はおれを生み、同じ女から子を世に送り、父親、兄弟、息子の、また花嫁、妻、母のおぞましい縁を、そうだ、人のあいだでこの上もない屈辱をつくり出した。だが、けがらわしい行いは、口にするだにけがらわしい」。そして、この醜悪な己が所業の数々を見まいと、両眼を抉ったのである。

では、この素性は如何にして暴かれたのか。オディプスの治めるテーベは、今、町を滅ぼしかねない疫病の蔓延のさなかにあった。住民たちは神官をとうして王に嘆願し、快癒を願い出る。だが、王は彼らの苦悩を聞くまでもなく、すでにデルポイの神殿に遣わした使者の答えを待つところであった。漸く届けられた神託によれば、この町を覆う血の穢れをはらうべし。すなわち、前王ライオスを殺めた下手人をあげ、この者を追放、もしくは彼の血をもってライオスの血を贖うことだという。

オディプスはその探索に全力あげ、こう神かけて誓う。誰であれ、下手人は「その幸なき命を悪人にふさわしく不幸にすりへらすように。またわたしは、われとわが身に呪いをかける。もし彼が、わたしの合意の上で、わが家のかまどを分かつ者となれば、たった今ほかの者にかけた呪いをこの身に蒙るようにと。」

当初、ライオスは盗賊に殺されたと伝えられていた場所が、かの「三又の道」であり、あるいはキタイロンに遺棄された子供はコリントに届けられたとの知らせを受けるに及んで、先ずは妻のイオカステが事の重大さに気づき、探索の中断を願うが、王は一途に突き進む。ここに、妻であり母は、絶望のあまり縊死してしまう。

先に私は、善意思についてふれた。そこには恐らく、誠実さも入るであろう。かれは自身の誓いを誠実に果たそうとした。その結果が、己や周囲の者たち全てを巻き込む、救いようのない悲惨、破滅であった。こうして、作者は善行、善意思が、必ずしも人の幸福をもたらす分けでないという、人生上の悲惨、あるいは皮肉をあからさまにしたのである。観客は、一見平穏そうに見える自身の生活が音もなく変貌し、地獄の深淵が大口を開け、今にも自分を飲み込もうと待ち構えているかもしれない、こんな恐怖に慄然としたであろう(以下次回)。


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