2016年6月10日

6月10日・金曜日。早や真夏日。

フロイト(1856-1939)は、神経症治療に打ち込むことから、後に精神分析学を確立するという巨大な業績をのこした。そこに至る歩みを述べることは、我が能力の限界を遥かに越えるが、大雑把に言えばこんな事になろうか。神経症の治療のためには、発症の機序がまず解明されなければならない。そのために彼が開発した「自由連想法」なる手法からして独特であった。例えば「夢」は、目覚めた直後に被験者からその夢によって触発される印象、気がかり、不安、喜びなど大小に関わらず、その出来る限りを聞き出し、それらの要素の連結を話させる事で、何か巨大で奇怪な夢の諸相が分解され、かくて被験者自身が夢の意味を得心させられるのである。この文章では分かりづらいかもしれないが、思ったほど難しいことで無いから、ご自身でやってみられればよろしい。ともあれ、こうして夢は異界から舞い降りたお告げや占いといった神秘性を剥ぎ取られ、それは彼自身の内部に宿る様々な思いの錯綜の結果であることになった。

マタモヤ、余計な道に踏み迷ったが、いつもの事で、行き着くところまで行きましょう。彼はこうして人の精神世界、そのうち特に無意識になされる行為や思念のメカニズムに分け入る道を見出し、無意識界の発見者と同時に解明者となったのである(興味があれば、『精神分析学入門』にある「しくじり行為」の説明を読まれたい)。

ここに、人の行動は必ずしもカントに代表されるように、自らの自由意志に基づく、理性的な判断によって律せられるわけでない事が明示された。そうした事態は既に、ロマン主義、歴史主義といった文学や哲学の世界では周知のことであったが、フロイトは情念や激情に駆られた人の、なんとも了解不能な行動を因果的に解明する道筋を開いたという点にその最大の功績がある、と私は見たい。

では、彼にとって、人には意識されないが、しかしその人の行動を規定して止まない要因とは何か。それこそlibidoである。これはしばしば性欲動、性衝動と訳されるが、必ずしもそれだけではなく精神的エネルギーをも含む。であればフロイトはこのリビドーを管理、禁欲して、その解放を性的領域から精神世界に転換する事によって、西欧近代科学、文化、芸術、さらには資本主義的な膨大な経済発展が成し遂げられたと言えたのであろう。なお、ヴェーバーは決してフロイトの精神分析学を評価しなかったが(私にはその理由は良く分からない)、この点での彼の主張は否定しなかった。

さて、私はこれ以上の土壺に陥る前に、足抜けしなければならない。本日の初めに戻って、神経症の発症メカニズムについて、乱暴にも言っておこう。それは、彼によれば、特に女性患者の場合、幼児期か子供時代の躾において、厳格にすぎる扱いを受け、リビドーの解放が妨げられ、あるいはその成長を捻じ曲げられたケースが多い。その結果、精神障害をこうむった。それは、キリスト教的禁欲主義と結びついた女性教育のあり方に一石を投ずる指摘であったろう(こんなことを書く積もりは毛頭なかったのであるが。次回『ギリシャ悲劇』に戻るはず)。


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