2016年5月26日

5月26日・木曜日。暑し。

幾つくらいになると、人は自分の人生の来し方を振り返るようになるのだろうか。一概に言えないことは無論だが、それでも折に触れ、そんな事を以前より深く思う歳というのはあるような気がする。しかもそれは、人生のピークは越えた、と自覚する年齢に差し掛かった頃ではなかろうか。「アノ時、アーシテいれば、コーしていれば・・・、チクショー、アノ野郎、コノ野郎」といった恨みや悔しさ、あの時、この時の失敗やら不運を嘆きつつ、それでも束の間の僥倖、小さな成功に慰められながら、「ショーガナイ、これがオレの実力だ。運命だ。結局、こうしか生きられなかったンダ」、と言った辺りに落ち着くのがオチではないだろうか。

こうした思い出は、喜びより不幸の場合の方が心に強く残るというから、それだけでもわれわれ人間はあまり幸せには生きられない、と言えそうだ。そして、この理由を心理学は、失敗を脳に深く刻み込むことによって、二度目を避けようとするからだと説明する。ここで思い出すことがある。マイケル・S・ガザニガ『<わたし>はどこにあるのか:ガザニガ脳科学講義』(紀伊国屋・2014)によれば、人間が因果的認識を追及するのは、それが教訓的な意味を持つからだ、と言っていたように記憶する。M・ヴェーバーはある所で社会科学の認識の客観性を、生じた事柄の因果的な認識のうちに求めていたが、私には正直、彼が何故これほどまで因果性を重視するのか、いま一つ腑に落ちなかった。が、ガザニガの説明により何か分かったような気がしたのである。

たしかに因果認識が人間社会に齎した恩恵は測りがたいものがある。これがなければ現在の全技術体系は成立しない。さらには「魔術の園」と言われた迷信、呪術、魔術の摩訶不思議から人間は解放されることもなかった。だが、ガザニガによるかぎり(と言って、それは例によって我が勝手な読み方にすぎないのだが)、因果認識は事象の多種多様な認識に対する、人間の脳の都合のよい一つの選択にすぎないとすれば、そこではなにか大きな欠落、そぎ落としが生じていると危惧されないだろうか。因果性の背後にある意味世界の問題はその一つであろう(なお、ヴェーバーはこの問題の重要性を、決して忘れていなかった事を、彼のために言っておく)。

私はまたもや、本日言いたかった事の道を踏み外し、ガザニガ辺りから枝道に迷いこんでしまった。ともあれ、我々の人生問題は、単なる因果的な説明では断じて解消されない。「あの時あそこで我慢し、もっと勉強しておれば」などと悔恨しても、彼や彼女の無念は何ら解消されはしまい。人はそのとき人生上の幸不幸、矛盾、不公平といったありとあらゆる了解不能な不条理に向き合い、これをどう受け入れるべきかに思い悩んでいるのである。そして、己が人生の意味を問うているのである。

その時人が思いつくのは、こうであろう。たしかに、その時々のその人の決断は、彼の事情や能力、あるいはめぐり合せの状況の中で因果的に決定されるに違いなく、だからその多くは彼の責任に帰せられる他は無かろうが、それを全体で見た場合、これはただただ自分の決定だけの結果であったのだろうか。このように決断し、実行を強いたなにか別の力、は無かったのだろうか。こうして、原因から結果の推論とは逆転した、結果から原因への遡及によって、はじめから自分の人生はこうならざるをえないように計画した何者かの介在があるのではないか。

こうした思考は、現在のいわゆる科学的な教育を受けた世代にとっては、とりわけ神秘的、宗教的な生活圏の中にある人々を除けば、受け入れにくいものであろう(と言って、現在の若者たちが常にそのような科学的な生活者だとは言わない。オウムの事例からもそうだ)。しかし、そのような世代も人生の峠を越えてこれまでを振り返ると、何か言いようの無い軌跡を見ることにならないであろうか。なにを隠そう、私は最近、4,50代の頃には考えもしなかった心情にとらわれ、不思議な思いにあるのである。それかあらぬか、『ギリシャ悲劇全集』(人文書院・昭和35年刊)の世界はなにか他人事ではないのである(これについては次回)。


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