2016年5月20日

5月20日・金曜日。うす曇、蒸し暑し。

ブロムクヴィストの安楽死論は以上である(と言って、筆者の勝手な要約にすぎないのだが)。最後に、こうした彼の思考を支える死生観を「生きる権利」と「死ぬ権利」から再考し、もはや長大になった本項のまとめとしよう。まず、この二つの権利の根底に、彼はサルトルの提起する「選択の自由」の問題を見据える。サルトルは「自由の磔刑」のうちに現代人の苦悩をみたが、「安楽死」に向き合う医師の「生と死」の選択こそ、その最たるものであるに違いない。彼はその結果責任のすべてを一身に負う覚悟がなければならないからだ。だが、その責任には何が込められているのか。患者の病状、治療技術とその可能性、施術後の生活の質といった純医学的な見通しに関する最新の知識と置かれている医療環境の水準(彼の技術、医療設備、スッタフ等)の他に、この患者の治療が他のより可能性のある生命の阻却、限りある医療資源の費消、生命の不平等の発生、これらに対する社会的・文化的な受容度等々までもが考慮される。であれば、真摯な医師こそ「誰を救い、誰を殺すか」の選択に苦悩せざるをえないはずだ。ブロムクヴィストは問う。「わたしは・・・生きたくないとはっきりと表明している人間が死なないようにし、彼に人工呼吸器を取り付けて、別の人間の生きようとする意思を拒絶すべきであろうか」。

彼によれば、この難問には二つの回答がある。一つは、「全能の神」(すなわち、運命)に全てをゆだねて事にあたることであり、他は不完全ながら人間の理性を信頼することである。それは考慮すべき諸要因のうちのごく一部の、それすら危うげな見通しにすぎないにせよ、前者よりも誤りは少ない、と信ずる立場である。言うまでも無く、彼はこれを支持する。以上が、医師が直面する「選択の問題」である。

では患者の「選択の問題」はどうか。ここにも医師に劣らず深刻な苦悩がある。患者本人の「生死」の問題だからだ。だが、これに対するブロムクヴィストの回答は明快である。「人間が自分の生命に対する権利を有しているのであれば、もし彼がそれを望むなら、この権利を放棄する権利をも所有しているのではないのか?生きることを欲しない人間に一体誰が、そして何が生きることを強制できるのか?」。誠に強烈な「自己決定権」の宣言であり、徹底した個人主義の主張が凝縮されている、と言わざるをえない。これは他の何者の介入も許さない個人の自律性の要請と承認に他なるまいが、同時に全ての結果責任を一身に引き受ける強靭な精神の成熟が前提されなければならないだろう。誰もがその域に達する分けでもなかろうが、そうした個人の集合体としての社会とは、いかなる社会を想像すれば良いのであろう。

とすれば、今や彼にとっての医療とは生命の単なる遷延を図ることではなく、「死」を「賜物」として送る医療、すなわち「死の幇助」が容認されなければならない。というのも「もし人間が自分でこの賜物の提供される時期を決定できるなら、人生は個人にとっても、彼の家族、社会にとってもはるかに安らかなものになるはず」だからだ。

誤解の無きように言わなければならない。これは独立人格による「自己決定」によって表明された痛切な「死への願望」であり、それに基づく医療的措置である。優生学その他の名を借りた、都合のよい医学的殺人と混同される事があっては断じてならない。だからであろう、ブロムクヴィストは「死の幇助」を「生命を奪うこと」であろうはずは無いと言明したのであったか。

以上のような思考と論理がヘデビューの信念をどう支えたかは、もはや論ずるまでも無かろう。のみならず、彼の著書はスウェーデンを越え出て、西欧世界第一級の文献として医学、哲学、宗教といったおよそ「生と死」に関わる全ての分野においても多大な影響を持ちえたのであった。だがそれは、勿論、彼が権威化され、ただ訓詁解釈の対象になったという意味ではない。そんなことは、カントの「絶対的基準」の探求を否定し、倫理学を発展するダイナミックな学問とみる、彼の望むところではないはずだ。むしろ、彼の主張が基礎となり、そこに潜むさらなる可能性、あるいは問題を彼に続く人々が引き出し、これをより広く、また深く彫琢するためのスプリングボードになったという意味でなければならない。事実、彼は多くの支持者と批判者をえた。本書の著者はそうした応答のあり様、また「安楽死」「死の幇助」の概念とその変遷を克明に検討されている。

その内、筆者には、ウッラ・クヴァルンストレームの思想と実践が最も興味深い。看護婦の経歴を持つ彼女は、多年にわたって「人生末期の医療問題」に実践的に関与する傍ら、哲学学位を取得し(ストックホルム大学)、現在、ベルゲン大学医学部教授の職にある。彼女の独自性は多くの「臨死者」との面談を通じて彼らの内面にある「死の影に対する生き生きとした認識」をふまえて、終末医療のあり方を提示した点にありそうだ。ブロムクヴィストの「安楽死」には、それが積極的であれ消極的であれ、「殺人」には変わりなく、医師や近親者、さらには社会の倫理規範を毀損する危険をふくむだけに、彼女の功績は逸することはできなのである。だが、筆者はそれらの問題をさらに辿ることはもはや出来ない。

最後に私事を一つ付しておきたい。昨年12月、103歳の母を看取った。90歳を越えてなお一人で暮らす気丈夫であったが、室内で転倒するにおよび、我が家に引き取った。97,8歳の頃であろうか。多忙と仕事にかこつけ、その面倒、介護のほとんどを家人に押し付けたままであったが、老老介護を地で行くその様は、ショートステイ、訪問介護のケアーを最大限利用したものの、やはり限界をこえた。しばしばでる介護疲れからの事件の報道もよく理解できた。そして、考えさせられた。「明日はわが身。こんな負担を誰にかけられようか。それにしても、医療の酷さよ」。

そんな折、本書を思い起こした。多分、尾崎先生から寄贈して頂いたはずだ。書棚をみればたしかにあった。「いずれジックリ拝読させて頂きます」とか、体裁の良い礼状を書いてからもう何年になろう。奥付けには2002年とあるから、はや14年前のことである。先月、恐るおそる本書を開けば、表紙裏に一葉の文が添えられていた。「御笑覧頂ければ幸いです。*表紙の印刷インキが生乾きですので、手が汚れないようお気をつけ下さい」。すでに灰色に変色したゼロックス用紙に刷られた文字が「生乾き」どころか用紙の灰色に呑み込まれるような頼りなさであった。それほどの期間、本書はたな晒しにされていたのである。

この度、本書から多くをおしえられた。拙文は著者の意に満たぬものであろうが、これまでの無音をお詫びし、我が御礼にかえさせて頂きたい。

尾崎先生、有難うございました。


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