2016年3月17日

3月17日・木曜日。快晴。

書とは、大小はともあれ、白紙に一本の墨線を引く事から始まる。そこに臨む書家の心境、決意を忖度することは、やり直しを許さぬ世界だけに、はなはだ興味深いものがある。

ことに大作の場合、筆はもはや腕を離れ、まさに身体と一体となって、息をつめ、目指すイメイジを求めて、寸分の狂いも無く一気に運ばれなければならないだけに、そこには、逃れられない跳躍への決断と一つの格闘のドラマが演じられているに違いないからだ。

しかし書は、身体技やその能力・美を競うスポーツではない。それまでの経験と培った技両を駆使し、書によってでしか表象しえない美を造出しようとする営みだと思う。もっとも、その「美」をドウ捉え、どのように意味づけするかは、書家の、いや芸術の世界の住人たちが等しく直面する問題であろう。そして、その深浅に応じて、そこから生み出される作品の深みと訴求力は、自ずから異なるはずである。

亀甲会の理念は、断じて古代人の刻んだ甲骨文や金文の採掘、再現ではない。だから、これ等の文字がどれほど見事に模倣され、字面よく描かれようと、それだけでは作品としての価値はない。そうではなく、太古、人々が亀甲や鉄器に記して、神々の声を聴こうとする祈りの心を捉え、それを通じて作者の内面を鍛え上げ、現代社会に新たな精神の息吹、その美を送り届けようとする、そうした精神性が求められているようにみえる。

ここで、一つ立ち止まって考えてみよう。古代人が文字を通じて神意を聴こうとするその祈りの意味と深さとは、どのようなものであろうか。彼らを取り巻く自然の酷薄さと獰猛さ、そこから身を守るにはあまりに乏しい技術や調度の類。考古学が教える知見によれば、金文が史料的に多数発掘される殷代(紀元前12世紀頃)には漸く王朝が成立したが、青銅器が主流であり、いまだ本格的な鉄器時代(紀元前750年頃と言う)には程遠い時代である。であれば、人々は不安定な政治もさることながら、それ以上に分けもなく突然襲来する、容赦の無い天候不順や天変地異、その結果の農業の破壊、疫病の蔓延等をどれほど恐れたことであろう。きのうまで人間を慈しんできた自然が、今日は憤怒の形相をもって怒り狂えば、ここに神意を見、これを傾聴したいとの思い、祈りは実に深刻であったに違いない。これは神話的世界の人々に共通の心性である。

そうした祈りの意味を今に蘇らせ、我ら人間をはるかに超え出た何か大いなる力の存在に気づかせようとする、亀甲会の理念とその活動に私は共感する。と言うのも、このような祈りは、現代でも無縁ではあるまい。五年前の大災害は言うに及ばず、世界を席捲する気候変動の脅威、グローバルな経済活動の破壊は留まるところを知らない。人間は、今、自然に対して暴虐の限りを尽くし、やがてその復讐を受けるのではないかと恐れるからである。

私は当会の活動理念をそのようなものとして理解するが、そこから生み出される作品世界は独特の意味と色調を帯びる。白紙に書かれた文字(これを私はモンジと発したい)は、それは紛れもなく書であり、同時に画である。だからそれは描かれるのである。そして、それが描かれたその瞬間から、用紙全体が作品として躍動し始める。墨線は踊り、余白には風や色彩が満ち、あるいは音がざわめき始めるのである。しかし、ハタと見据えれば、墨書はただ用紙に書き付けられて、静止したままなのである。

どういう事か(以下次回)。


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