2016年1月28日

1月28日・木曜日。晴れ。

記憶だけの話で申し訳ないが(と言って、これまでもズットそうだったのだから、今更体裁をつけるまでも無いのだが)、渡辺京二『逝きし世の面影』の中で、江戸期では子供たちは実に暖かく、愛情深く育てられ、その成長ぶりを大人たち皆が楽しんでいる様子が細やかに描かれていた。ことに、五、六歳までの子供たちは武士も町民も変わりなく、甘やかし放題の可愛がりようであったそうだ。しかし、ある歳になると(たしか七歳の祝いであったか)、子供たちは身分や家業に応じた厳しい躾を受ける事になる。一日を境に、彼らは昨日までの生活とはまるで違った世界に入るわけだが、それをいとも容易に受け入れいれ、大人から見ても厄介な儀式、仕来りを、大人びた顔付きと振舞いを持って、難なくこなしていったらしい。これら一切を目の当たりにした西洋人たちの驚愕は、私にもよく分かる。

こんな子育てに明け暮れる大人たちの生活は、ドウか。人々のたれも彼もが、分に応じて家の内そとに花木をあしらい、丹精し、これを愛でて飽かない。ある春の一日、江戸に住する西洋人の二三人が馬上の人となり、そんな江戸の町を散策しながらいつしか巣鴨を越え、板橋辺りまでも駆け抜けるその間、切れ目無く多様な花木が咲き、菜園の広がる景観に、さながら桃源郷に踏み入った思いであったという。これも我が怪しげな記憶に過ぎないが、わが国の植物採集に執着したシーボルトが椿をオランダに持ち帰り、ヨーロッパに根付かせたと聞くが、こんなことが出来たのも、こうした文化があったればこそであろう。ちなみに、当時の日本の花木の栽培は、中国を抜き世界でも第一等であったらしい(中尾佐助『花と木の文化史』岩波新書)。そして、私がこんな椿談に及んだのは、わがドイツ留学のおり、知日家のドイツ人に向けて、あなた方にとって、日本人の桜と同様な意味を持つ花をあげるとすれば、何か、と問うたところ、ややあって「カメーリア」と答えた話を思い出したからだ。彼は椿が日本から齎されたことを知っていただろうか。

こうした花鳥や風月に身を寄せ、湯に行き、酒を飲み、ときに男は遊郭に、女は芝居に熱を上げ、あるいは伊勢参りや富士講を楽しみにする生活とは、一言で言えば、「ユトリ」に尽きよう。こんな世界の生活ぶりは江戸落語や京伝、春水らの幾つかを見れば、たしかに得心させられるだろう。

私がここで言いたい事は、子供を取り巻く大人たちの生活ぶりについてである。彼らが明日を煩うことなく、楽しみと慰めに囲まれてあれば、セカセカ、イライラしながら、背中に貼り付けられた油紙を燃やされる思いで日々を過ごさねばならない人たちに比べて、どれほど幸せであるか計り知れない。その時、我々を取り巻く様々な文明の利器がどれほどなかろうとである。それらは、確かに、生活上の重要な一要件である事は認めても、断じて必須の、他の全てに先行する重要事ではないのである。

かつて、我々の先人たちはこれほどにまで優しく、豊かに暮らしていた。この話を次と比べて、人はどう考えるべきであろう。我々は江戸の人々よりも、進歩している、幸せであると、胸を張って言えるであろうか。昨日、三歳の男の子が食事中、同居の男の目と合って、彼は「ガンをつけられた」事に腹を立て、殴る蹴るの暴行の末、遂に殺害してしまった。この男はそれまでも、日常的に暴力を振るい、子供の泣き叫ぶ声は常軌を逸した程であったという。大人が小児にそこまで荒れ狂える事の尋常ならざる事態に恐れを覚える。彼は暴力団員であったから、例外だとはならない。最近の子供に対する親たちの打擲はこれに通ずる狂気、冷酷、執拗さがあり、しかもそれらを躾と取り繕って済ませる無恥と共に、ここには現在の我々日本人の心底で、何か心情の破壊が生じたという思いを突きつけられるが、如何であろうか。

かの男は言っている。「やった事は、やった。」そして、自分の人生に対する未練もない、と。だから彼の心には、こんな惨忍な殺害をしてさえ、その子供への憐憫と悔悟の一片も思い浮かんでこないらしい。これもまた、人間の底に潜む心情の一つに違いなかろうが、しかし自らを粗末にする者は他者の命をも塵芥として扱う事に、何の躊躇もないと思い知らされるのである。

何をドウすべきかは、私にも分からない。


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