2016年1月21日

1月21日・木曜日。晴れなるも、風強し。

これまで私は将棋の教育力や多様な潜在力がどんなものであるかを示しながら、その魅力を述べてきたつもりである。しかし、これを記しながらハタと気づいたことがある。先の事例は、負け戦にある場面が中心であった。戦い利あらぬ将の困苦、苦渋、にも拘らずその重圧に屈せず、戦局を開いて勝利への展望を探ろうとする、精神力、忍耐力の涵養をみようとした。

たしかにこれらは人生を送る上で、避けては通れぬ試練の数々である。これをドウ克服し、あるいは負けるにしてもその敗れ方に応じて、人間としての価値や魅力、輝きも増そうと言うものであろう。しかし人の価値とは、そうした逆境における対応においてのみ、測られるものではない。サヨウ、幸いにも順風に恵まれ、事が成就し、頂点に達しようとしたときの、その立ち居振る舞いにおいてこそ人格がアカラサマになることもあるのではあるまいか。

観戦記を読んでいると、しばしば「勝ちに震える」という言葉に出会う。苦しい峠を越え、幸運にも恵まれ、ヤット前途に光明がさして来た。ここまでくれば、大丈夫。モウ、逃さない。後は慌てず、丁寧に、大事に仕上げていけば、勝ちは自然に手に入る。こうした安堵と気の緩みが「九仞の功」を一瞬にして失う羽目となる。安全勝ちを目指すあまり、指し手が萎縮するからだ。対する相手は負けを覚悟し、眦を決してナリフリ構わず厳しく迫り、その気魄に押されるからでもあろう。勝ちを勝ち切ることの難しさが、将棋には確かに多い。相手が難敵であり、舞台が大きいほどに、その勝利の得難さと結果の大きさ、つまりは名誉と賞賛と富とが眼前にチラツキ、是が非でも勝ちたい、勝ちになってる、との思いに囚われ日頃の冷静さを失うのでもあろう。是もまた、人の根に蔵する弱さである。


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