2016年1月15日

1月15日・金曜日。晴れ。早や一月も半ばとは…。

さて、ヘボながら、私が将棋を指していてツクヅク思い知らされるのは、「マッタ」が許されない、つまり、取り返しができない事である。先を読むとは、無限の闇に向けて一条の光を照らす、そんな行為になぞらえられようか。それは名人もヘボも変わりはあるまい。ただヘボの場合、その一条の光は限りなくか細く、光にもならぬという違いがあるにすぎなかろう。しかし、その違いは絶対的、無限大のものであるのだが。

ともあれ、そんな読みを頼りに、熟慮を重ね、それでもアレコレの不安をかこち、最後は「エイ、ヤッ!」とばかりに、清水の舞台から飛び降りる。それが決断である。だが、これが良かったか、悪かったかは相手次第の運頼み。しかし、それによって局面は動いて、場面は変わる。一手前までは確かに良かった局面が、一転、哀れ劣勢を呈することもしばしばだ。だが、もはや後戻りは出来ない。

これはまさに人生そのものではなかろうか。たしかに、人生をやり直す事は不可能ではない。しかしそれは、間違えた人生を取り消すことではない。失敗を教訓に同じ轍を踏まぬよう決意し、人生を立て直す、そういう意味でしかない。

将棋はそうした事情、機微を一手毎の決断のたびに教え、鍛え上げてくれる。改まった局面に対峙して、それが良かろうが、悪かろうが、これまでの経緯はどうあれ、只今現在、眼の前にある盤面に対して最善の道を探る他はないのである。それがいかに絶望的な場面であろうと、諦めてはならない。ヤケになってはならない。そこを踏ん張り、苦しみに耐え、闘志を維持し、戦い貫かなければならないのである。だが、そんな苦行を頼まれた分けでもないのに、人はなぜ自らノメリ込んで行くのだろうか。それこそ、将棋の持つ魔性の力と言っておこう。

ところで、ここでの戦いは決して短いものではない。名人戦が二日に及ぶ消耗戦であるは周知のことだが、こんな長時間にわたって精密な思索と緊張を持続させるとは、いかなる訓練を要するのであろうか。むかし、灘 蓮照という棋士が大山康晴名人との戦いに臨んで鉄下駄を履き、足腰を鍛えた、との話が思い出される。現在の棋士たちもそれぞれに応じた克己と訓練の時間をお持ちのことと思う。将棋が格闘技と称せられる所以である。

要するに、将棋は知力や精神力と共に体力を要する、全体的、総合的な能力、人格形成にも資するゲームである。普通「遊戯、競技、娯楽」等と訳されるこの言葉は、しかしここではもはや単なる「気晴らし・遊び」をこえた奥深い意味を帯び、灘 蓮照が日蓮宗の僧侶であった事が示すように、人生の秘儀、宗教的な意義に繋がる言葉として、私は受けとめたいのである。


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