2015年12月11日

12月11日・金曜日。雨のち晴れ。24度、季節外れの暖かさ。何か、全てが狂う予兆あり。野坂昭如、昨日逝去。無念。

何も改まって「病気」を定義することもないのだが、長年そんなやり方を取ってきたものだから、そんな風にしか話を進められない。まずはお付き合いを。そこで病気とは、『広辞苑』でもOxford Dictionary of Englishでも、生物体の一部か全体に生じる不調、異常であり、それによって正常な機能が損なわれる状態を言う。これが何によって、ドウ引き起こされたかを見極めるのは、それこそ医学の最も重要な問題だ。

これには医学観の問題も絡んで一筋縄では行かないが(罪とか罰とか汚れを持ち出せば、呪術や宗教や因果応報の世界になる)、ここでは西欧で確立された医学を考える事としたい。そうすると、既に何度も見てきたように、そこでの科学観によれば、事象は因果の結果に他ならず、病気もそれを生じさせる何らかの物理的生理的な要因の結果とみなされよう。つまりここでは、病者に取り付く罪や悪霊の類は一切除去される。ツイデニ言っておくが、この事は決して小さなことではない。史上、悪名高いレプラ患者の差別と排斥を思うだけでも明らかだが、彼らは病苦に加え、貧困と社会的蔑視や差別の苦痛に耐えなければならなかった。

さて、病気は何かの病因によるとしても、その特定は難事である。病気は体内の体液の失調により、その限り病気は全身病と捉える、ギリシャの医聖ヒポクラテス以来の体液論は現在でも支持される病気観ではないか。これに対して、病気は体の組織や器官の疾患にすぎないとする部分の病気観がある。そして、それらの組織を組成する細胞の偏倚が病気であるとみたて、かくて病気の場、部位を細胞という最小単位にまで絞りこもうとしたのは、19世紀の生理解剖学者フィルヒョウであった。かれのこの立場を進めれば、病巣の切除や臓器移植にまで射程はのびる。しかし、その彼も、細菌、微生物による病気観には抵抗し、コッホを苦しめた。ただし、彼の細胞病理学では、正常細胞の偏倚過程の説明がただ「刺激」という実に曖昧な概念に依るばかりで、治療に対してはまるで無力にとどまった。この点、ワクチンを発明し狂犬病他を治療したパスツールに遥かに及んでいない。だから、かれの病理学はローマカソリック的迷妄と揶揄されたのである。要するに、病気の特定、それはやがて診断学として確立されるが、それは医学の進歩、発展と無縁ではないのである。

以上、何処までホントで、何処から我がソウサクなのか分からぬ無責任な文章を綴ってきたが(何しろ、かつて書いた論文を思い起こしながらの難業であるから)、私がここで言わんとした事は、発症した症状から診断がなされ、それによって病名が付されるとしても、それはその時点で確立された知見のもので、しかもそれはその病気の発症、機序、転機に関わる一般的な知識――私流に言えば、それは実験室の中で、知ろうとする事柄のために、他の諸状況を固定化して得られた、まったく抽象的な一般的知識・法則知にすぎない、ということである。だが、それが個別事象の具体的な対応に即実行性があるかとなれば、これはモウ別の話になるのである。


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