2015年11月19日

11月19日・木曜日。晴れのち曇り。

今日もまた、「ホントの終わり」の続きをやろう。一週間、あれこれ考えていたら、前回の末尾で言ったことは、実は、この今や長くなった主題(わが学問論のつもり)の出発点、イハバ振り出しに戻ったことに気づいたからである。もう、これまでに何を言ったかすっかり忘れてしまって、繰り返しになるかもしれないが、研究の主題選択は、本来的に研究者の自立性に基づいてなされるものである。つまり、研究者はそれ以前に、自立した独立の人格であり、これを前提されている、と言うことである。ヴェーバーの学問論を多少とも齧った者として、これだけはハッキリさせておかなければならない。

勿論、彼には指導者がいる。彼の未熟を補い、当該分野でのそれまでに達した人類の知的成果を教え、そうしてそこでの課題や今後の見込み等々を厳しく仕込む。こんなことは研究分野だけのことではないが、そうした基礎的な鍛錬を積んだ研究者は、その後は眼前に広がる無辺際の荒野を一人歩むことになる。只ただ、自分の意欲と能力、そして有るか無きかの幸運だけを頼りに。自然科学分野での共同研究や大型プロジェクトはいざ知らず、人文系、社会科学系の研究の多くはそうである。村上春樹氏は「書きたいものを、書きたいときに、自由に書く。これこそ作家の楽しみである」(『職業としての小説家』)といったように記憶するが、その心は研究者のそれと全く同じである。

研究の動機は多様である。カネや名誉、義務から強制等々。森村誠一『悪魔の飽食』を読んでみられよ。細菌爆弾等の開発のために、石井四郎は満州においてそれは惨たらしい「悪魔」のような生体・人体実験の数々を行い、「飽食」を知らなかった。その成果は、アメリカの同種の研究に及んでいなかったようであるが、人体実験というその特異性のゆえに、GHQに接収され、この取引により彼は戦犯をまぬかれた。彼の学問的な水準がどの程度のものかは、私には不明だが、これもまた研究であるに違いない。かかる恐ろしい研究はこれに限らず、ナチスにもアメリカにもあって、それが戦争と言ってしまえばそれまでだが、これらを含めて研究と言えば、それを推進する研究者の動機は知的興味を越えた別の実践的、義務的、強制的な何物かへの奉仕であろう。しかし、そうした研究に豊饒性と未来があろうか(今日はこれまで)


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