2015年11月12日

11月12日・木曜日。うす曇り。近頃は 街路で済ます 紅葉狩。

前回、私の言いたかったことはこうだ。無意味な社会に生きるからこそ、人は自らそこに意味を与え、目標や志を立て、その事に励まされて積極的に生き抜く可能性を開くことが出来る。そこには何らの上下の差もない。何故か。絶対的な無意味を前にして、人は上下の基準、善悪の判断をどうつけるというのか。これこそドストエフスキーが言った、「神無くば、全ては正しい」の含意ではないだろうか。

ならば、殺人、強盗、詐欺、カッパライ何でもイインダ、許される、などと間違ってはいけない。そんな事を考える人は、間違いなく監獄送りになるから気をつけたほうが宜しい。恐らくこれはかの『罪と罰』に触れる問題であろう。太宰も『人間失格』でこれを扱った。残念ながら、私にはいま両者の関係を論ずる用意はないが(と体裁のいいことを言うが、そんな用意が出来るときはまず無い)、罰とは社会、というより国家が決めた規範、法律、規則の違反者に対して執行される物理的、精神的な制裁である。そして、この法規範はしばしば社会正義、善悪の判断基準となるものである。しかしそれは社会制度を維持するための規定であり、それ故一つの便宜、手段にすぎないように見える。であれば、それは社会組織が消滅すれば、その瞬間に霧散する他はない。だからホッブスは自然状態(つまり国家のない状態)にある人間は、自らの生存の為に全てを為しうる権能を持つと言えたのである(『リバイアサン』)。こうみると、人間には「善悪」の判断をつける能力はないのではないか、と言ったトルストイの言葉も頷けるものがある(『戦争と平和』)。

誤解を恐れず、ここで分かりやすい事例を挙げよう。売春である。現在でこそ、これは最も忌むべき所業とされているが、人類の歴史と共に在り続けている職業の一つである。どの時代、社会でもこれを正面きって称揚することはなかったが、さりとて根絶された社会を、私は知らない。それどころかある時代、社会では、単なる社会・経済的な政策手段として支持されたばかりか、文化的にもそれが認知されたケースもあったようだ(『売春の社会史』筑摩書房)。ここでは、売春の成立や存続の理由を問おうとするのではないから、この深追いは出来ないが、売春も法がイケナイといわない限り、悪にはならないと言う事を指摘しておきたいのである。もう30年以上も前になるが、ドイツに留学していた折、あちらの新聞で、パリの娼婦たちが職業の自由と権利を守れとばかりに、デモ行進したと知らされ、当時の日本では考えられなかっただけに、ある衝撃を受けたことが思い出される。つまり、売春も絶対悪として規定されてはいないのである。いや、出来ないのであろう。

今回も私は、例のごとくに、妄言の世界に踏み迷ってしまった。と、ハタと気づくが、ともあれ通常言はれている是非善悪は、恐らく社会制度の維持、発展との絡みで云々されているだけのことでしかない。しかし、人は社会・国家の為に生きるにあらず、と私は言おう。というのも、こう考えることが、滅私奉公、忠君愛国ナンゾという怪しげな、そして今ではそれが転じて「社畜」なるお上にも、会社や組織にも都合のよい人間像の鋳造に行き着く危険があるからだ。また、これは個人の人格と個性を磨り潰す思考を持つ。政治学は、国家なる言葉にはコモンウェルス、つまり「市民の共同の福利」の達成を目指すことから「国家」に転じた系譜と、ステーツという国民を支配するための権力装置を意味する「国家」の系譜の二つの流れがあると教えるが、わが国の場合、後者の流れが今もって強い。こうなったには、プロイセン憲法をベースにして構成された明治憲法の精神、あるいは思考が、現在なお息づいているからではないだろうか。

だが、ここで同じ事を、今一度言う。人は社会の為に非ず、自分自身のために生きるのである。国家は、そうした個々人の生き方を尊重し、それを支援し、そのために法を創り、行政を動かし、司法はそうした国家の営みを監視する。そのような意味で、コモンウェルスでなければならない。このような国家制度の枠組みの中にあって、個々人は独立人格として自らの生に向き合い、己の意欲、理想のもとその目標を打ちたて生を生き抜く。こうした人々の連帯、協力のある社会はどうであろうか。そこでならば、「このように生きよ」、との神や学問の指針を失った現代のニヒリズムも乗り越えて行けないであろうか(この項、ホントの終わり)。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です