2015年10月15日

10月15日・木曜日・晴れのち曇り。

本日からまた、それまでツブヤイテきた我が学問論(の積もり)の話題に戻ることにしたい。だから、ここでは7月28日・火曜日までの論議を引き継ごうということになる。といっても、既に一月半前のことでもあり、もはや書いた本人ですらその内容は覚束ない。それは、読み直せば何とかなるにしても、ただどういう意図で話をし、結末はどの辺りにするか、といった構想というか、思考線までもがハッキリしなくなってしまった現在、事はそれほど簡単ではないようだ。よって、以前とこれ以降とでは話が違う、と言う事にもなりかねない。と、マア、これだけの予防線を張って、いよいよ本題に向かおう。

今、これまでの文章に適当に手を入れながら読み返してみれば、取りあえず以下の話をこんな風に繋いで見たい。地球上の全ての事象、従って我々の人生もまた、意味なき所業に過ぎない、という痛切な認識である。この世の事は、ただ起こり、消滅しさるだけのことである。ただ、こうした人生観、世界観は何も西洋人に教えられなくとも、仏教的な思考に鍛えられた日本人にはすでに馴染みのものである(鴨長明『方丈記』)。

にも拘らずこれを言うのは、彼らの場合、すでに見たように、時には神に仕え、また対決しながら、ある確立された科学的な認識を通して事柄の生起一般を、生成、消滅、構造等の視点から因果的に認識するという、言わば苦闘の末の結果だからである。科学知、これは未だ部分知、不完全な知的体系でしかないにせよ、しかしこれへの信頼性は今後高まりこそすれ、弱まることはあるまい。そうした地盤から現実存在を見据えたとき、ただそれは因果の連鎖の帰結にすぎず、それ以外の何者にもあらず、という点で人生上において生起一般は「無意味ナリ」との結論は、私には一点の曇りなく、逃れようのない明晰さで突きつけられているような思いである。

19世紀末から20世紀にかけての知の転換はこうした意味を持ったのであろう。他方で技術力の躍進と経済活動の拡大、戦争の広域化と長期化と戦火の惨状等々を生み出した。しかし、かかる状況下に生きる人類に、もはや神はなく、生きる指針も与えられない。このような時代に生きる人々は生の意味を問うことよりも、状況に埋もれ、これに流され、刹那の享楽に沈淪する他はないのであろう。ヴェーバーは言っている。「心情なき享楽人」と(本日はこれまで)。


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