2015年7月16日

7月16日・木曜日。台風接近による余波か、かなりの雨。

では、それはドウ確かめられようとするのか。ポパーは分かりやすい事例を上げてこれを説明しようとする。「カラスは黒い」。これは一応、科学的な理由に立ってそう言明された。とすれば、これが真であるからには、カラスは、時空を超えて、全て黒くなければならない。しかし、これを全部、一羽づつ確かめるのは、不可能である。そこでこれを「黒くないカラスはいない」としたらどうか。過去を問い、また将来、黒以外のカラスが一羽でも発見されたら、この文章の妥当性は否定されることになる。このように科学知とは、常にその真偽が検証されるような形式で提示されるものでなければならない。これを「反証可能性」と言い、これによって科学と似非科学との境界線が引かれたのである。そして、現在の科学知の真理性、妥当性は、これを否定する事実が提示されるまでの、暫定的なものに過ぎないことを論証したのである。

この意味は科学の範囲を確定し、その論理を明示したという点でとても重要である。例えばこんな事例はどうか。「存在するものは合理的であり、合理的なものは存在する」。これはヘーゲル『法の哲学』で語られた有名な一文である。この文章を是非とも、口の中で何度も何度も口ずさんで欲しい。そうすると、ここでは現実世界の全てが見事に説明されているのに、気付かされるだろう。しかし、それは反証のテストにかけようもないから、現実をなんら説明したことにならない。これがポパーの見解で、だからこれは似非科学だ、となる。へーゲリアンにとっては大いに不満のあろう事ながら。

ところで、科学知の検証はドウ為されるのか。先に、実験について一言した。科学的な命題が提示されるまでには、多年にわたり、膨大な量の実験が行はれるが、そこにはそれを規制する様々な手続きがある。コッホの「四原則」にみたとうりである。何でもかでもデタラメに数さえやれば、時に幸運に恵まれ、良い結果につながるなどと、期待したいかもしれない。これをserendipityと言うが、ウェーバーはいう。真剣に必死になって努力するものにしか、そうした「僥倖」は訪れない。当然、こうした実験過程は時期、時間、素材、装置、手続き等について、詳細な記録が残されなければならない。ここが大事だ。これに基づいて、他の科学者たちによって再実験が行われるからだ。そうして、その成果が再生され、ここにその正しさが検証されるのである。かかる検証作業はその成果が重大であるほど、世界中の、一級の科学者たちによって行われよう。小保方氏の不幸はここにあった。彼女の主張は世界の誰によっても再認されなかったのである。 

こうした検証過程を経て真理(とは言え、暫定的真理)と認められた科学知は、因果法則として提示される限り、それは事象の認識であると同時に、予測を含む。しかもそれが、普遍妥当性を持ったものであれば、その予測は必然的でなければならない。それだけではない。ある原因が特定の結果を必然的に生ずるとすれば、この結果を生じさせるためには、その原因を設定すればよいことになり、ここに認識知は技術へと転化されるのである。ベーコンが「知は力なり」と言ったのは、この意味であったが、本来、科学と技術は別物であって、これが科学技術として一体化されたのは、近代のことであった。知の技術への奉仕はここに始まる。これについては、いずれ別に述べるとして、ここでの問題にケリをつけておきたい。ポパーによれば、認識知と予測知と技術化とは、理屈からすれば、一体化されうるもので、そのどこかで破綻があればその法測的知識は間違っていることになる。

しかし、ポパーも知るように、そうは問屋が卸さないところが、ムツカシイ。


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