2015年7月9日

7月9日・木曜日・連日の雨。ギリシャに端を発し、中国市場荒れる。日本経済の行方は?

上の事から、言うべきことは色々あるが、第一に指摘しておきたい事は、科学知とは現に生じている事柄のごくごく一部しか知るにすぎない。その意味でこれは、無限の内容を含む現実世界から、これまた無限のモノを切り捨てて得られた、極めて抽象的な知識である。しかもそれは、人間の側からその関心に応じて、対象の一部分を切り取って、それを知ろうとする営みである。だからこれは「人間中心主義」と言はれもするのである。そして、科学の論理がそういう事であれば、科学知はどこまで行っても事象の断片知にすぎない訳であるから、かような断片知をいくら寄せ集め、集合し、そこから一大総合体系知なるものをこしらえ上げても、その総合理論から現に起っている事柄を全体として見通し、予想し、その事柄をコチラノ都合の良い方向に引き寄せることなど、まるで不可能であろう。かつて、カール・メンガーはチラッとそんな事を考えたようだが、この点で彼は理論構成の意味と限界を見そこなったのである。しかも、理論と現実との乖離、その落差の問題に知悉していた彼にして、そうした錯誤に陥ったことからも、この問題の奥深さを教えられるのである。

さて、かりにもせよ、ソンナ便利な理論が出来れば、人間にとってこれほど幸福なことは、またとあるまい。その時、我々はついに全ての事象を知り、予測し対策が可能になるであろうから、人類は貧困や争いから免れ、地球環境を守り、生命を維持し、もしかしたら不死の身を得るかも知れぬ。それは我々人類が神になるに等しい。現在、目前の株式市場の乱高下、あるいは台風の発生、その進路の予測、地球上に生ずる政治経済の混乱にすら困惑しているこの吾ら人類が、である。

私は、悪ふざけや冗談から、こんな事を言っているのではない。現在の地球上における我々の振る舞いは、既に常軌を逸しているのではあるまいか。核技術の開発は言うに及ばず、何千メートルもの深海から石油を掘り出し、北極海を溶かし、地球最大のラジエーターと言はれるアマゾンに広がる大森林地帯の開発、そして、いつかはその結果生ずるであろう大災害・大悲惨の数々も、やがて発明される科学技術によって克服されることであろうと夢想したのか、これらの不幸は全て一時的な問題にすぎぬとする姿勢はどうか。ここには目前の利益に眼がくらみ、将来を無視した、現代世界のエゴイズムが剥きだしになっている。この根底には、科学技術にたいする盲目的な信仰、或いはそうあって欲しいという願望があるように思うのである。であれば、一度は科学論について向き合い、その論理を考えなければならないのではないか。

またもや、回り道をしすぎてしまった。第二に言ってみたい事は、科学の予測とその技術化についてである。これは上でもチョイト触れたが、その仕組みと言うか、その論理の問題である。これは、以下で扱おうとする事に関わりそうだからだ。

カール・ポパーはどこかで言っていた(言っていなかったら、ゴメンと先に謝る)。科学(ここでは自然科学を言う)の目的は一義的には、自然界で起った事柄の説明である。要するに、なぜそんな事が起ったのかという認識の問題だ。それを、前回言ったように、因果法則として表す。その定式の意味は、他の条件が等しければ、その原因に対しては、常にある結果が生ずるという、両者の必然的な関係を表そうというものだ。その場合、この関係式は、その事象の因果関係を、時と処を超えて、だから普遍妥当的に説明しうるものでなければならない。このように時空をこえて普遍的に妥当する認識を、ムツカシク言うと「法則定立的」と呼び、これを自然科学の認識目標としたのは、ドイツの哲学者・ヴィンデルバンドだった。

こんなことは、直ちに忘れて宜しいが、次の事は大事だ。言うまでもなく、自然科学はレッキとした経験科学である。であれば、そこでの因果法則は経験によって妥当するかしないか、が常に確かめられることを意味する(突然ながら、疲れたから、コレまで)。


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