2015年4月24日

4月24日・金曜日。はや穀雨。汗ばむ。

かくて漸く御著の骨格、土台を据える所にまいりました。しかしこんな周辺的なことをグズグズ述べ立てていては、肝心の御著に対するわが印象記には行き着けません。乱暴に、一気に結論に参りましょう。本書の主題は、何と言っても、そのタイトルが示すとうり「戦間期」の欧州で台頭した社会経済の国家的改革の潮流、分けてもナチズムの運動とその理論的支柱となった経済思想体系の抽出、ついでそれらが天皇制を基盤としたわが国に移入されるに際しての、知的エリートたちの衝撃および吸収・反発の過程を点検し、そこから湧き上がるわが経済思想、社会改良政策の数々が論ぜられます。しかし、ここで重要な点は、ナチズムの理論を学ぶ学者、改革官僚たちがそこから「総力戦」の政策を編み出そうとする苦闘の過程(それも一つの論点であるにしても)ではなく、むしろそれを契機として、かかる一連の運動を包括する時代的潮流の中で、あるいはその圧力をうけて、欧州やわが国でいかなる経済理論、思想が生み出されてきたかを捉える点にあると言えましょうか。この意味で、本書は往時の経済思想の形成史を把捉したと申せましょう。

それは同時に「戦間期」の評価に繋がる問題でもあります。第二次大戦はそれ以前と現在に挟まる「断絶の時代」であるのか、「連続の時代」であったのか。これについての評価、解釈次第では、第二次大戦に向き合う我々の姿勢は全く異なります。当時から今に引きずる問題をどう解決すべきか、との問いの前に引きずり出されるからです。もし連続説に立たざるをえなければ、我々は深く考えなければなりません。吾らを戦争に駆り立てたあの狂気は、機会と状況が揃えば、またもや発揮されるかもしれないからです。時代は、なにかそんな危うさを孕んでいると感ずるのは、私だけではありますまい。

英書で出版された本書の意義は、改めて申し上げるまでもありません。それでも私は、ここで蛇足を付すことに躊躇しません。当該問題にたいし、本書はそれほどの学問的な功績を果たされたからです。その第一は、戦間期における日独経済思想の生成過程がそれぞれ綿密に辿られながら、しかもそれが本書の目的ですが、ドイツからのわが国への影響が比較経済思想史として明らかにされたところでしょう。両国の当時の思想史研究は、それぞれ別個なものとしてなされ得ても、この両者を突き合わせてわが国へのその受容過程を内在的に考究することは、恐らく外国人にとっては至難の業であるばかりか、日本人研究者にとっても並大抵のことではあるまいと存じます。先にわたしが「気の遠くなる研究」と申し上げたのは、そういう意味でした。

内在的な比較研究の効力、有効性は本書の随所において認められます。一点だけあげれば、風早八十二の独日社会経済体制の比較論は、ドイツに比したわが国の生産力の劣勢、社会体制の遅れ、そこに住する国民意識の未成熟、それゆえ諸改革は政府主導の「上からの」ものにならざるを得ず、要するに近代化の遅れを白日の下に曝しました(p.229.)。この認識は彼のみならず、我妻他に通ずるものでした。であれば政府中枢は、例えば生産力の劣勢を労働条件の改善、教育に求めず、一気に天皇への忠誠といった精神論に解消する他なかった次第が明らかにされたのでした。

そろそろ結びといたしましょう。本書は先にも申し上げたとうり、現代史の解釈とそれに伴う我々自身のたち位置を決定するためにも、重要な基盤を提示したと言う意味で逸することの出来ない研究成果を上げられ、しかもこれを英語で世界に発信されました。私は常々思うことがございます。「知」の貿易収支という点では、特に社会科学の分野においては、わが国は圧倒的な赤字を抱える途上国にある、と。しかしその潮目も、最近漸く反転の兆しが見られるようになってまいりましたが、本書はまさしくその隊列に加わるべき第一級の資格を有する一書として世界に送り出されました。私はこれを慶事として、心より快哉を叫びたいと存じます。

ただ長いだけの雑文となったようです。これにて筆を擱きたいと存じます。いずれお会いできるときを楽しみに、どうぞお元気でお過ごしください。

 

 追伸。一点、気になっている事につき、お尋ねします。Vergeisternの日本読みについてです。ふつうこの言葉は「精神化」と訳されるようですが、私には、どうもシックリしません(ちなみに、御著p.76ではこの語は、Despiritualizingと英訳されており、これは精神的なものを奪う、という意味になりそうです)。ヘーゲルの精神を持ち出すのは大袈裟にしても、肉体に対して精神といえば、より高尚な意味を帯び、低次元の様々な欲求を制圧し、理想とする何物かを成し遂げる原動力のようなものを想起させます。あの人は意志が強く、精神が立派だ、というわけです。しかしゾンバルトのこの語を、そんな風に読むとまるで意味が通じなくなります。御著でも指摘されておりましたが、彼の資本主義の精神はヴェーバーとはだいぶ異なり、利潤追求に対して企業家は、一方で賭博的、冒険主義的でありながら、他方でその実現性を冷静に計算し、ハヤル心を抑制しうる精神力と合理性を兼ね備え、この両者の緊張を含んだ精神だ、と解されます。いわばここには、企業家の人間としての体温や血液を感じさせるものがございます。しかし、資本主義も盛期になると、かような冒険主義は否定され、経営の組織化、官僚化のもと、その意思決定はひたすら合理主義的になされる。ゾンバルトはそうした経営のあり方を、企業経営権を一手に握った経営陣とそのスタッフの指揮命令系統に属するものとみなし、これをVergaisternと呼んだ、と私は理解しました。とすれば、これは組織体の頭脳集団が他の身体部分を自由に駆使することですから(余談ですが、これはまさしく後のナチの指導者原理の先駆でした)、たしかに「精神化」には違いありませんが、いかにも分かりにくい。と言って、私に適訳があるわけでもありません。「指揮系統の肥大化」とも考えましたが、これもどうかと思います。

ミスプリ、一つ発見しました。ご参考までに。p.87. Hon’den’s は、Hon’iden’sと思います。


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