2015年4月9日

4月9日・木曜日・晴。但し、昨日の雪の名残か風寒し。

ここに、新たな経済思想――つまり単なる理論の枠を超えた、社会経済の在り様をその歴史的な意味と展開までをも視野に納めた思想体系――の構築が待望される時代になったのでしょう。マルクス経済学はその筆頭に位置するはいうまでもありません。が、私はここにJ.S.ミルをその一人に加えたいと思います。御案内のごとく、彼はサン・シモン、フーリエらフランス社会主義思想の洗礼をうけ、またコントを介して社会動態的な視点を持つという点で古典学派の枠を超え出た経済学者でありました。のみならず、定常的経済状態をリカードに反して積極的に評価し、経済発展よりも文化的生活の重要性を、自然環境の維持と共にほぼ初めて主張した思想家として、新たな社会観の構築に彼なりの貢献を、さらにそこに彼の現代的な意味合いを認めざるを得ないと思われるからです。その線上にマーシャルが浮上します。彼は古典学派の伝統を受け継ぎながら、近代経済学の創立者の一人であったことは申すまでもありませんが、その彼は直面する新社会の矛盾にたいし、マルクスとは別種の解決策を模索しようといたします。すなわち、資本主義体制を革命的にではなく、その温存を図りつつ、そこでの矛盾の除去をめざす。彼の弟子、ケインズもその意図において師と同じ道をとったといえば、これはもう大学一年生の思想史の授業のレベルとなります。

しかし、敢えて私はこれに触れざるをえません。と言うのは、御著でマーシャルについては「騎士道」の精神が、またケインズには経済に対する国家的介入の是認が、彼の『自由主義の終焉』を引かれながら指摘され、しかもそのご指摘は本書のその後の展開にとって単なる導入的な手続きをこえた極めて重要な意味を負わされていると、私は解したいからです。

すなわち、騎士道の問題はこうです。スミスの説く「利己心」は、しばしば誤解されるように、自分だけの利益追求を専らとし、他者の権利の蹂躙も厭わぬ利己主義的な「心」では決してなく、むしろ同感の原理の制約とフェアープレーの精神に裏打ちされた観念でありましたが、歴史の中でその点が見落とされたのは彼にとっては、不幸でした。いずれにせよ、かかる条件のもとでの各人の自由な経済活動が自らの幸福の達成と共に、社会全体の幸福と発展を齎す、と彼は展望した訳でしたが、その結果は総労働対総資本ののっぴきならない対決から、革命にまで事は進んだのでした。であればこそ、マーシャルは私利の追求ではなく、社会的福利を目指すと言う意味で経済人に「騎士道」の精神の涵養を説いた。他方、ケインズはかかる心理的、精神的要素もさることながら、自由主義市場に潜む制度的な矛盾に着目し、国家によってその是正を図る道を探ったと言うことでしょう。その理論的な到達点を、我々は後にあの『一般理論』の内にみることになる、というのは要らぬ蛇足です。 

しかし、次の点は是非申し上げておきます。御著では、「利己心」の何らかの掣肘と自由主義的市場の是正に対して、これは経済人が自らとりうる対策と言ったレベルのものではなく、国家的な取り組みを要するが、その実行はやがて経済社会制度の本質的な修正にまで行き着く問題を含んでいる次第が追い追い明らかになります。いずれにせよ、彼ら二名の主張にはそうした認識が潜むと同時に、それは何も彼ら二名のアイデア何ぞではではなかった。これは合衆国、日本そしてドイツ、要するに先進資本主義国が取り組むべき共通の問題でもあって、そうであれば先生がまずこの二人をさりげなく扱われるその筆致には中々油断のならぬ気配を感じさせられるのです(以下次回)。


Comments

“2015年4月9日” への1件のコメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です