2015年3月18日

3月18日・水曜日。うす曇り。

「遊び」こそイノチ、仕事はこれを支えるカネ蔓だ、と言って憚らぬ人にたいし、現代の評価はまだまだ厳しいのではなかろうか。「これは仕事だ、遊びじゃない」といった言葉を思い出すまでもなかろう。ソンナ人は会社での出世を早々に諦めるほかはあるまい。刻苦勉励、勤労精神に支えられて、一気に近代国家を造り上げたわが国にあっては、特にそうした心情は根強いのだと思う。また、列強の植民地化を免れようとすれば、必死にならざるをえなかった歴史的な事情もあった。だが、我が日本人は、常にこんなシャッチョコ張った二宮尊徳翁ばかりではなかったようだ。これについては江戸期における、武士から町民までの、今から見れば羨ましいばかりの安穏とした暮らしぶりを、だからもはや再び帰らぬ「面影」として詩情豊かに描いた渡辺京二『逝きし世の面影』を是非読まれたい。

「遊び」には、いい加減、チャランポランの意味が絡みつき、そこから何かマイナスのイメージが出てくる。「遊び人」となると、これはもう決定的である。正業を持たず、ひたすらヒトの懐を当にし、日がな一日遊び呆けるようなヒトの意となる。『日本国語大辞典』には、遊びとは、4、からかったり、もてあそんだりする対象。おもちゃ。5、賭け事や酒色にふけること。遊里、料亭などで楽しむこと。6、仕事や勉強の合い間の休憩。7、しまりのないこと。たるみ。8生活上の仕事などにあくせくしないで、自分のしたいことを楽しむこと。他に、機械のあそび。

これに対して、playにはもっと積極的な意味が込められている(ドイツ語のspielenも同じ)。例えば、こうだ。2、競技する。3、演奏する。4、芝居や上演をする。役を演じる。5、行動する。6、(動物などが)飛び回る。(光や影・風などが)ゆらぐ、ちらつく。(噴水・光などが)噴出す、飛び出す、等々である(『新英和大事典』より)。

このように比較をしてみると、彼我の遊びのイメージには、かなりの落差があるようにみえるが、どうか。我々の場合、仕事が主であり、遊びは仕事の合間の息抜き、だからその時間には決まった目的もなければ、やるべき事もなし。その揚句はせいぜい遊里にでも足を運んで賭け事、酒色にふけり、よく言えば、明日の仕事のためのエイキ、どんなエイキかはともかく、を養うばかりということになろう。その故だろうか、わが国の文化論では、ホイジンガやカイヨワに見るような遊び考は生まれず、遊び場、クイモノ屋の案内、旅マップめいた物の氾濫になったのか。だが、人生いまや80,90年の時代である。仕事を退いた残りの時間が格段に増えた己が人生を、そんな事で送れるものだろうか。そんなことで、果たして充実した生になるのであろうか。なおここで、大河内一男『余暇のすすめ』について一言すれば、本書は恐らく、社会科学の立場から初めて余暇を本格的に扱った名著とは思うが、だがこれとてもその署名が示しているように、仕事の合間に残った「余暇」時間の善用が主題であって、その限り仕事に従属させられた「余暇」を問題とし、ここで扱った遊び考には及んでいない。


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