2015年3月4日

3月4日・水曜日・晴。花芽やや膨らむ。

前回の文章の末尾は、書いた本人にとってもよく分からない。ならば、読み手はもっと分かるまい。あんな文になったのは、パソコンと3、4時間ほどの格闘の末、私はモウ疲労困憊。一刻も早く解放されたいとの思いに駆られたのであろう。さりとて、中途で投げ出すわけにもいかず、ともかく結論を急いだことがある。だが、最大の理由は私にも分からない領域で、なにやらエラソウナ事を言いたかったからかもしれない。それはともかく、前文をもう少し補足して、意のあるものにしたいという気になった。その結果はさらなる迷妄の闇に踏み入ることになるやも知れぬが、あと1回だけお付き合いを。

「価値の普遍性」あるいは「普遍的価値」という言葉が難しい。だがこの言葉の哲学的な釈義はどうでもよろしい。ただ、ここで私のイメージしたのは、こんな風な事であった。例えば『地下生活者の手記』を読む者は、その主人公とまったく同一の、これはアイツだ、といえる人物を思い浮かべることはできまい。しかし彼に似た小心で、やたら自尊心だけが強く、傷つくことを恐れ、だから地下室に潜り込んでだれ彼構わず呪っていそうな、そんな人ならすぐさま思いつくだろう。しかもその指先が次第に自分の鼻ズラに向かってくる気配に襲われ、ギョッとさせられるかもしれない。事実、この作品をとうして、私はツマラン事と分かりながら争うわが卑小さと見栄、自分ではドウにも始末に負えない心情や恥辱を容赦なく明るみに引き出された思いに駆られた。誠に情けない次第であった。だがしかし、他方で、人間とはこのような存在なのだ。お前だけではない、と諭されたような気にもなる。にも拘らずこうして自分は許されて生きているのだ。ならば、他者に対してもそうでありたい。読後の直後は、確かにソンナ健気な気持ちを持ったと思う。本作品の成立契機は、合理的な社会建設を目指そうとする思想潮流に反し、人間の非合理を突きつけようとする意図に発したと言はれているようだが、そんな文学史的な経緯と説明などまるで知らなくとも、その意味は十分味わうことができる。こうして本作品は、とくに現代の市民社会に住まう人間の本質を見事に抉ったものとして、私は評価するのである。

このように、一つの具体像を介して、ある場合には何処にも存在しない虚構を通じて人類全体に敷衍し、共感を喚起するのは、文学だけの特権ではない。絵画。ここではたった一個の事物、人物、風景が描かれながら、その具象の向こう側にある美その物を抽出させる。これを鑑賞する者は、しばしば画家の絵筆があまりに見事に対象を写し取る筆力に感嘆し、それに捉われ「マルで本物のようだ」「生き写しだ」と嘆声をあげるが、それはドウもちがう。これでは画家を褒めたことにはならないらしい。画家の努力は具象に寄りかかりながら、まだ見ぬ新たな美その物を現出させようとしているようなのだ。そこに写真と絵画との違いがあるという。ただ正直に告白しよう。このようなレベルで絵を見たことは、私は一度もない。残念ながら、それほどの鑑識力、審美眼は持ち合わせてはいない、と(ここまで来たら、音楽についても一言あるべきだが、これは絵画以上に我が感性の彼岸のことゆえ、割愛のほかはない)。

どうであろう。以上の拙文で、前回の文章の意は、少しは満たされたであろうか(この項、ホントに終わり)。


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