2015年1月28日

1月28日・水曜日・晴。風強し。

前回の覚悟をもってここに座したが、あれは覚悟だけの事で、中身はなにも変わってはいない。人とは、そんなに簡単には変われるものではないのだ。ただ、ウワゴトでも何でもイイから、是非続けよ。楽しみにしているのだから、との声も届いて、それならショーねー、と恩着せがましく続けることに。と言って、これを止めたら、ここでの我が仕事が無くなり、失業の憂き目にあうので止める分けにもいかないのだ。そんな訳で、本日もドーなることやら、行方知れずであると、一言。

「一人、二人の死は悲痛である、百人の死は悲劇だ。だが、千人の死は統計だ」と、スターリンは言ったという。真偽の程は知らない。しかし、一千万単位で人を殺害した彼のことである。このくらいの事を平然と口走っても、不思議ではない。しかもここには、政治の真髄が一言にして示されている、と私は思う。政治とは、かくも非情、冷徹である。生半な人道主義、理想主義なぞ寄せ付けない過酷さがある。

政治の要諦とは、何か。全体福利の実現であろう。統治地域およびそこに住まう人々の全体的な平和と安寧の確保であろう。だがそれは、必ずしも領土的な保全ばかりを意味しない。民族、歴史、文化、体制等がふくまれる。ただそれらは、普通、ある広がりを持った地域、土地と結びついて営まれる他はないため、領土的な要求、要請が第一義となろう。こうした内実を持つ国土の存立が危うくされたら、為政者たるもの、これを断固排斥するのは、当然である。戦い利在らず、国土の蹂躙にまみえれば、ある地域の切捨てどころか、時には地域全域すら見殺しにしようと、そのことが将来の復興の礎になろうとすれば、躊躇なくこれを実行せざるを得ない、そうした論理が貫かれているように思う。ドゴールのみならず、民族解放戦線の戦いはそういうものであり、また加藤陽子氏によれば、蒋介石は日本軍に占領統治された中国東北部はじめ沿海部、華中地域を切り捨てても(確か何千万か、億単位の人命の犠牲になるらしい)最終的な勝利をめざした。勿論、そこには単なる戦闘を越えた外交戦、諜報、報道その他あらゆる資源と知力の動員もかみされる。

ドーモ、話が大きくなりすぎて、始末がつかなくなってきた。以下ナントかコジツケル事にしましょう。私の言いたかったことは、政治の目的は統治領域の全体的な安寧福利、秩序の維持である。つまり個々人の幸福は二義的でしかない。それは、文学、宗教の問題である。しかも厄介なのは、この全体的な安寧、福利と言ったとき、その意味合いは誠に多義、またその実現の方途が問われれば、実に茫漠としてくる。分かりやすく言おう。今問題になっている「イスラム国」流では、コーランを厳格に解釈した(かどうか、知らぬが)生活様式、すなわち、女はブルカを纏い、学問を拒否し、家庭にこもった生活を送ることこそ幸せとし、それを破ることは社会の混乱をよぶらしい。また社会的正義や幸福の実現にしても、社会主義的な平等な富の分配によるべきか、個人の創意を重視した自由主義的な、それゆえある程度の格差を是認した分配によるかの論争は果てしもなかった。今でこそ地球上の多くは資本主義国となってはいるが、しかしそこに孕む矛盾は覆いがたいのが現実である。さらに国家の平和の問題は、外国との関係であり、それは即国防、軍事に関わらざるを得ない。国防の強化は、とくにわが国のおかれた現状をみれば、直ちに悪にはならない悩ましさがあるのである。

国の安全、国民の福利厚生のあり方、その実現の方途は、結局は主義や主張の数だけありうる、と言いたい。その何れを採り、捨てるかは、その国が置かれている歴史的・地政学的状況、文化・政治的熟成などによって決まるのであろうか。私としては、それは結局、その国の支配機構の側からの選択だ、と言いたいのだが、それもまた国民の意思と全く遊離してはあり得ないとすれば、国民だとも言えなくもなさそうである。だがそれは、決して国民の自発性に基づく決定ではない。支配機構側からする様々な教化、教育、情報操作、法制度や宗教的・道徳的な働きがけがあるからである。マルクス的に言えば、これこそイデオロギーの力である。とすれば、国民の意思によると言っても、それはカッコ付きのことにすぎない。

ここに一つ興味深い問題が発生した。「イスラム国」に拘束された後藤健二氏のことである。政治は全体を問題にし、個には関わらぬと言ったこれまでの論議とどう整合するのか、という問いである。これについては、次回とする。


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