2014年12月18日

12月18日・木曜日・晴。風強し。

私が週一遍通う、ここ早稲田の事務所の近くに鶴巻南公園がある。「都の西北早稲田の杜に」と今も歌われる地区ではあるが、いまやその杜は住宅やビルに取って代わられ、その面影は大学構内や周辺地域に僅かに偲ばれるくらいである。この公園はそうした昔の思いを呼び起こす、数少ないスポットであろう。周囲から迫る住宅の波から辛うじて守られた空間は、わが子供の頃に遊んだ陣地取りのような、そんな公園にすぎない。都心の住宅地を歩いていると、ふっと出会う小さな公園の一つである。

それでも私はこの公園ちかくに来るとホッとする。小なりといえども、園の一辺に生い茂った椎、樫、銀杏、杉、桐、欅の巨木が見事である。そこに、私はかつての武蔵野の面影をみるのである。春には新緑の瑞々しさがあり、夏は木陰と涼風を贈られる。秋から冬にかけての木々の装いとその変化は、わずか50メートルばかりの道のりとはいえ、十分に楽しい。黄葉する銀杏のとなりには、樫や椎のやや黒味がかった常緑の葉がクッキリとした輪郭を添える。風のない陽だまりの、午後のほんのひと時、ベンチに憩う人の姿が、そんな木々の合間からみられたりするのである。

私は30年ほど前、ドイツ・フライブルクに1年半暮らしたことがある。当地はドイツ人が憧れる景勝の中都市であり、最初の一週間で魅了された。町の中に公園がある、というのではなく、公園が町の一角をなしている。そんな佇まいの都市であった。人々は夏と言わず、冬と言わず、川の畔、菜園のなか、あるいは町中を散歩に明け暮れ、気が向けばカフェーに入り、ベンチに憩う。そんな彼らの生活ぶりを見ていると、時が止まったような不思議な気がしたものである。勿論、彼らとて働くときは懸命であり、容赦はないが、しかし休息日は家族共々まことに長閑。生活とはこういうものか、とイタク教えられたものである。とくに、ここでの事で言えば、たとえ家が狭かろうとも(学生やら貧困者はいつもそうだ)、人々はカネも使わず家の外で時を過ごす場所があるようにみえた。たしかガルブレイスが『豊かな社会』で、豊かな私生活に対して公共施設の貧困さを批難していたが、あの頃そんな事を考えさせられもした。あれから、日本はどれほど進歩したであろうか。原発を誘致した町村は格別であると聞いたことはあるが。

ただ、公共施設がどうあれ、ベンチや散歩に時を過ごす人々の内面の問題はべつである。深刻でもあれば、楽しいこともあろう。こんな事は改めて言うまでもない。日々の生活で誰でもが味わう一齣に過ぎない。だができれば、公園や散歩でのひと時が、葉擦れの音、風のそよぎに身を任せながら、日常から一歩はなれて自分を見直し、勇気づけあるいは励ます時であってほしい。そんなひと時を過ごせるような人は、それだけで幸せの部類に入ると思うからだ。そのとき、隣に自分のそんな思いを分かち合い、共感してくれる人や仲間をもてれば、言うことはない。それはモウ、至福の時、に違いないからだ。私は進歩、成長、発展を第一とする昨今の風潮に、いささか疲れ果てたからなのだろうか。こんな妄言を書いてみた。これは、我が気分としては、『十分豊かで、貧しい社会』に通ずる積りでもある。

本日をもって、本年度のわが「手紙」の最終便とする。お陰様で、わがパソコンの技量は信じられないような長足の進歩をみた。読者諸氏(ホンとにいたのか、ドレだけいたか覚束ないが)のご協力に、心より感謝したい。来年もどうぞ宜しく。良いお年をお迎えあれ。


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