2014年11月12日

11月12日・水曜日・雨のち曇り

前回私はT・O君からの手紙を披露し、それについて若干のコメントを付した。それにたいして、我が携帯メールに2件の応答があった。そんな応答が私をその気にさせるので、今後もヨロシク、と申し上げておこう。本日はその内の一つをここに取り上げ、あれこれ考えてみたい(といっても、「下手な考え、休むに似たり」なる将棋の格言どうりにならねば良いが)。ただ、メールのご当人には、その旨の了承を得ていないので、その主旨を生かした文章に改めた。

この手紙にふれて、私は深く考えさせられました。まず私には「0に近い可能性に己のすべてをかけた事」は、これまでの人生にはなかったようにおもいます。それどころか、そのような可能性を問う以前に、本気で夢とか目標を持ったことがあろうか、とも自問いたしました。なにか、夢を描く能力に欠けるのかもしれません。少々、反省。
今回の手紙に触れ、自分にも出来そうな目標を持ちたい、そんな気持ちにさせられました。そんな折、地元の文化会館で講演会が開かれました。講師は市在住のアメリカ人女性が勤め、英語での話しでしたが、幸い通訳もついて、興味深くうかがった次第です。
驚きは、公演が終わり、質疑応答に入ったとき、突然、やってきました。それは、私にはまさに、襲われた、という言葉がピッタリの衝撃でした。会場には中年以上の女性たちで占められ、普通の主婦の方々だったように思います。その人たちが、次々に手を挙げ英語で質問をされたのです。そんな言い方は、なにか差別的になるので、控えたいのですが、あえて申します。かなりの聴衆の前で臆せず、女性が意見を述べるのも驚きですが、それが英語でのことですから、私のような歳のものにとっては、やはり衝撃でした。社会と時代の変化はここまで来ているのです。
これでは私も、及ばずながら、と思わざるを得ません。聞けば、最近では、派遣社員の採用にもトイック点が大事とか。また数年後にはオリンピックもやってきます。そうなると、「識字率」ならぬ「識英率」なる言葉が現れ出て、なにか学歴に匹敵するような基準になるかもしれない、などの恐れみたいな感じにとらわれました。そこで、私も自分に目標を課そう。会場の女性たちほどには行かなくとも、ナンとか意の通ずる英語をモノにしよう。これは学校の試験ではない、だから少々長いスパンで、でも決して中断せず、キットこの目標を達成しよう、と思い定めたところです。T・O君には負けてはおられません。
時節柄、お体ご自愛いください。

大意は以上である。私はこのメールを読み、人を動かすのは、心に深く届いた言葉でしかない、と改めて痛感させられた。確かに、人を意のままに操るのは、言葉だけではあるまい。カネや暴力、権力等などいくらでもあろうが、持続してその人を目標にむけて突き動かしていく力は、言葉に勝るものはないようにおもう。まさに「ペンは剣より強し」である。たしかにこのメールのご本人が、今後この決意どうりにやるかどうかは、別物である。だが、そんな結果は、私にはどうでもよろしい。それが一時の事であれ、これまでを振り返り、至らざるを反省し、行く末に思いを致した。そうして、人生上の目標を自ら定められたのだ。私はそれだけで十分貴いことだと思う。

また、私は思う。言葉とは、それほどの力を持つとすれば、その使い方にはやはり十分の配慮がなければなるまい。一言はただ発せられた一瞬後には、もう消滅してしまう。しかしそれが与える威力、ダメージの強さはどうだろう。「初めに言葉ありき。言葉は神と共にあり」。ユダヤの思惟はその真の力を直感していたのだろうか。

今、私は言葉の配慮と言った。しかしそれは、たんに丁寧で優しげな言葉使いを意味しない。そうした物言いで、相手の反論の機会を奪い、あるいは後々の「言葉の暴力」の批難を予め封じながら、深く傷つける、そうしたケースを、私はしばしば教育現場でみてきた。それは私自身であったかもしれない。逆に、言葉は乱暴でも、相手から慕われる人のあることを、知ってもいる。そうなると、ここで考えるべきことは、言葉を超えた更に奥深い世界に向かわざるを得ない。しかしそれは我が知力の限界をこえる。よってこれまで。


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