2014年8月13日

8月13日・水曜日・猛暑ヤヤ和らぐ。こんな句を詠んだ。影帽子 気付けば長し 法師なく。

話を進める前に、少し将棋のことを言っておこう。これは相手の王を詰ますゲームであることは、誰でも知っている。まず駒の動きに精通したら、序盤、中盤、終盤の進め方を覚えなければならない。そこには様々の手筋、技術、戦略があり、その複雑さは、目もくらむばかりである。王を詰ますまでの変化図は、ナント、10の90乗におよぶという。これがどれほどのモノかは、私には想像もつかない。考えるべき事は、ただ盤上の局面だけではない。相手の癖、人柄、気質、疲労度、棋力にくわえ、自分の体調等など。さらには、将棋観、人生観、価値観などもくる。一手の選択と決定には、それらが入り組み、だから大山康晴15世名人は、どこかで言っていた。「その人の生きかたが問はれている」。

こうしたことをバックにしながら、ヘボから上手までをふくめて、対戦者は作戦を立て、戦略を練り、難所に向かって事を進めていくのである。頭脳と気力と体力の限りをつくして。これが将棋である。まさに総力をあげた人間同士の戦いではないか。そして、この戦闘に、棋士が敗れた。その敗北は、ただ人間の一つの機能が劣ったのではない。視力、走力、腕力といった類の負けではない。そんな事に敗れても、われわれ人間はビクともしない。そうではない。ここでの敗北はわれわれの知力、構想力にかかわる事である。さきの「人間全体が機械に負けた」とは、そうした意味であった。

しかし、である。と、ようやく、本題。こたびのコンピュータの戦力たるやどうか?米長氏によれば、ホストコンピュータには600とも700とも言はれるコンピュータが連結され、かくて1秒間に1700万手を読むというモンスターである。しかもそこには、江戸期から残された棋譜が全部記録され、だからコヤツは現在にいたる定石やら戦略駒組みに精通している。また、対戦相手の棋士としての特性や彼がどの局面ではどのような決断をするか等すべてを解明しているとのこと。何の事はない。情報戦において、既にして騎士は敗れている。また、記憶力だけに限れば、棋士はコンピュータの敵ではない。さらに、詰め将棋のように、回答のある局面にでもなれば、棋士が1時間ほど要するところを、コンピュータは数秒で答えを出す。極めつけは、彼には悪手による動揺などと言った人間的な弱み、感情、アセリ、あるいは負けることへの面子ナンゾはさらにない。淡々と迫るその迫力は、薄ら寒いというべきか、実体のない空を相手にするような、なんとも奇妙な感じに捉われても不思議ではなかろう。だが、そうした状況がいかなるものかは、実際に対峙したものでしか分からないであろう。

このようなモンスターを相手に、棋士は戦ったのである。しかも、敗れたとはいえ、接戦であった。いま少し研究を重ね、対コンピュータ戦に特化した訓練を経れば―–それが棋士にとっていかなる意味があるかはともかくとして――将来的には棋士側の勝利も夢ではない。ここに、人間の能力の高さ、凄さを見るのは、私だけではあるまい。たしかに誰もがそんなレベルに達せられる分けではないが、才能に恵まれ、努力を惜しまなければ、人とは、かくも高きへと昇り得る者である、と私はいいたいのである(この項、ひとまずオワリ。本当は、もう少し続けたいのだが、モウ飽きた)。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です