2014年7月16日

7月16日・水曜日・梅雨明け近し・熱暑
この話も4話目になる。今日でけりをつけよう。飽きても来たし。ともかく、私の言いたいことは、こうだ。教師として採用されたその後のキャリアが決定的である。それが彼の人格を固定する。教師を目指す者は、恐らく、中高生時代にはクラスの優等生か、ともあれ勉強ができる。彼らは、だから、おおむね真面目な生徒たちであったであろう。正義感も強い。これは、褒められこそすれ、非難されることでは断じてない。大学では、将来に対する夢と希望にみち、なりたい教科の勉学に励む。他の学生たちが遊びほうけている中、所定の単位の取得に加えて、教育課程の単位もとらねばならぬ。これは傍目には、中々、大変なことのようにみえる。私のように、教職を目指し、将棋にウツツヲ抜かして、あえなく挫折した者からすれば、これは、モウ、神業に近い。しかし、彼らからすれば、それはそれ、中高生時代から身についた克己心のゆえにさしたることではないのかもしれない。

ここまで書いて、フト、気付いた。私は、難なく教師なれるような、そんな能力に深い憧れ、イヤ、嫉妬心があるのだろう。だから、いつの間にやら、意地の悪い物言いになってくる。ゴメン、と一言あやまって、続けよう。なにしろ、今日中に終わりたいのだから。

教師を目指す多くの人たちは、その初めから、ある規範の中に身をおくことの出来る真面目な性格を持つ。そんな彼らが、卒業とともに目出たく教師に採用される。そのとき、彼らは齢23,4歳。以来、何事もなく職を全うすれば、教育界で40年ほどを過ごすわけだ。事は、ここから始まる。23,4歳の右も左も分からん、ほんの半人前がイキナリ人様の面前に立ち指導者として立つ。子を預ける親たちは、まずは自分の子供の幸せ、安寧のためを願って、丁重に接し、できるだけ彼の意を汲み、事を荒立てまいと心掛ける。生徒たちも、相手は一応先生なのだから、それなりエライのだろうし、自分を教え、導いてくれる方なのだから、その言葉に従いましょう。マッ、こうなるのが、普通であろう。

こんな若さで、下からも上からも頭を下げられ、そこそこ己が意をとうせる場に身をおいたら、彼、彼女らはどんなになろうか?さらに悪いことには、彼らは採点という名の不可侵の権限―-これは中高の教師の場合かなりのものだ―すら持つ。社会的評価は決して悪くはない。彼らの自負心は大いに満たされることだろう。こんな状況の中で、彼らは何時、誰によって自らの至らなさを学び、マットウな人間へと立ち戻れるのだろうか。上司や同僚の言葉や指導なるものは、ほぼ無力であろう。ハッキリと申し上げる。これはもう夜郎自大(自分の力量を知らずに威張り散らすこと・『日本国語大辞典』より)そのものだ。根が真面目なだけに、こんな環境の中で40年ほどを過ごせば、己が信ずるところの信念は愈愈かたく、揺ぎ無きものとなるにちがいない。

先ごろ私は『絶望の裁判所』(瀬古比呂志)を読んだが、同書にも全く同様の記述があって驚かされる。わが国の裁判官は、エリイトコオスを歩み、法曹界以外の経験を知らず、きわめて狭い世界の中に身をおかざるをえない。ここに彼らの唯我独尊の悪習は覆いがたく、ことに目下に対する態度は不遜である。反面、将来の出世を思えば、国家の意を忖度し、その判決はしばしば偏向的となる。そこに著者は絶望をみたのである。

いずれにせよ、教育界であれ、法曹界であれ、こうした閉ざされた、他からの批判を受けつけない環境からは、多様な物の見方、他者への共感力が育つことはあるまい。そんな処から発せられる言葉は、つねに偏狭で、ふくらみもなく、相手を傷つける武器にはなりえても、ひとを生まれ変わらせるような力強いものになろうはずもない(終わり)。.


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