2014年6月18日

では、人はどんなふうにして、その絶ちがたい思いをサッパリとするのか?その見事な例を、お目にかけよう。わたしの友人の話である。間違ってもらっては困る。私ではない。これはもう、キッパリと申し上げる。

男子なら、タマ算を知らぬものはいない。誰でも皆、きまって左右に一つヅツ与えられ、これは古来より変わらぬ万古不易の法則として、だからそれを当たり前のこととして、ダアレも疑うことはない。誰かそれを疑ったりしようものなら、それは大変。こいつはどっか頭が変か、もしかしたらナ―んか、タマに支障があるのか、イヤイヤ、もっと重大な、人には言えぬ秘密があるんじゃなかろうか?何ぞ、カンぞとあらぬ疑いがかかるは必定。とくに若いモンがそんな嫌疑をかけられたら、それだけで彼の将来は、ジ・エンド。何故にそれ程の重大事が、かかるタマに負わされるのか?子供のころより、ナンシタル者メソメソシタリ、挫けたり、あるいは途方に暮れて泣き言をいおうものなら、それこそ世界のすべて、すなわち親父、センセイ、ガキ大将、はては母親までもがよってたかって、責め立てる。お前は男だろう、タマがついているんだろう、何を情けないことを言ってんだ、となる。これは、彼への励ましなのだろうか?あるいは虐めなのだろうか?それにしてもワカラン。どおしてこんな、シツケなのか教育なのか知らんが、やり方がわれわれの世代にはまかり通っていたのだろう。これはいまだに通じる仕込み方なのか。私は大学のウエイトリフイングの部長を長いことしていたが、そこでもこんな事がまかり通っていたのかも知らん。

だから、である。これほどの威厳のあるタマに、何か不都合なことが起こってみたまえ。当のナンシは居ても立ってもいられるものではなかろう。事実、私は人に頼んで、スマホとやらで調べてもらったのだ。そおしたら、ジャアーン、いたのです。二つ玉でない人が。二十歳前後のその彼が、不安の極みの中で、こう訴えているのである。僕はドウやら、タマが三つらしいんです。どお成っちゃうんでしょう。大丈夫なんでしょうか?ここから広がる彼の想像、不安、イメイジの世界に付き合ってみたまえ。彼の内面の世界は、もはや絶望、生きる甲斐もうせ、それはさながらダンテがウエルギリウスに連れられて、地獄の門を潜るとき読まされた文言そのものではあろう。「汝、すべての望みを捨てよ」。

しかし、わが友人は、言った。あのな、おれの右タマはな、綺麗なアアモンド型の、シッカリしたラグビイボオルなんだけれど、左はナンカそこに括れみたいなもんが入って、形が崩れかかってるんだ?このまま粉々になって、土星のようになったら、どおなっちまうだろう?と言いながら、でも彼の顔は、さして深刻でもない様子なのである。モウ、俺も古希を超えた。今更ジタバタしたって、始まらねえ。こうサッパリとしたもんだった。

つまり、事を受け入れ、欲を捨てれば、人は静かになれる。ただそれは、己が体力の限界を突き付けられ、それは逃れられぬと思い知らされるときに初めて可能になることだ。若い身空では、そうはいかない。多くの未練と欲望と、何よりも有り余る可能性が、かれをとらえてはなさないからだ。しかし、年寄りにはそんなものは無縁だから、かえってあっさりとしていられる。ここに、年を取るということの強さがある、といいたいのだ(6月18日水曜日・雨)(この項、おわり)。


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