2014年6月11日

6月11日水曜日。本日も雨。だからというわけではないが、今日も前回の話におつき合いいただこう。年を重ねれば、人は自然に熟するというものでもない。では、なぜ近頃の年寄は、いつまでたってもガキっぽく、なにか諦めのつかない、枯淡の境地にはほど遠いのだろう?しかし、これはなにも今に始まったことではなさそうだ。私がこれまでお付き合いいただいた、多くの先輩諸氏の、それはもうエライといわれた先生方でも我儘ほうだい、し放題の、といってご乱行とまではいかないが、―――そこまでいけば、コッチとらもモちっと尊敬もできようものを――マッ、私くらいの迷惑を人様におかけして、別段これといってお恥になることはなかった。ものの本には、そんな御仁はいくらでも出てくるから、今の年寄だけがことさら劣ったものとして、悪しざまに言われる理由もあるまい。

では、一体なぜ、年寄りたちは、6,70歳になっても、耳従い、規矩(きく)をこえずと孔子が説いたごとき、静寂な湖水のような生活に入ることができないのか?ヤレヤレ、やっと、本題にたどり着いた。ここに至るまでに、すでに1時間—?ああ、疲れた。モウ、止めようかな。ナンか、バカバカしくなってきた。今日は老眼鏡を忘れて、眼も痛くなった。でも、これで帰っては、ミンナにナンか言われそうだから、もう少し頑張ろうかな。

その答えは、こうだ。ある種の、といってそれは多くの場合でもあるのだが、年寄りたちは、諦める、格好よく言えば、諦念、断念の念を知らず、いつまでも未練たらしく、己が若き日の思い、希望、あの時の力等などにしがみつき、今でもそれが可能だと思い違いをしているからではないか。己を見つめよ。キミは、昔だって、大したことは出来やしなかったではないか。そのなん分の一の能力が、いま残っているというのか・・?ありやなしやのカネや権力?を駆使してみたところで、心からの共感と得心がなければ、人は動くものではない。そんな結果はたかが知れている。第一そんな大それた願い事を人にやってもらって、それが成就したとしても、今の君の人生上にどんな利益、意味があるというのか・・?君は後、一体、何年生きるというのか。まさか、永遠ではあるまい。そんなことに執着し、その行く末にハラハラ、ドキドキならまだしも、イライラしながら、眼を三角にし、ありったけの腹を立て、命より大事なカネの心配に明け暮れるという生活を、おくりたいのかい(つづく)。


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